自分の中の相手像と現実の相手とのズレ

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この記事に対し、

【暴走する老人の愛と性欲】職場の高齢男性にガチ恋されてしまった体験談がなかなかにキツかった - Togetter

この「お互いの相手像・相手への思惑がズレている」にも関わらず「一方の行為だけが許容・擁護されている」と言う構造は割りと属人的で、この男性はたぶんこれまでにも同じ構造の問題を起こしてると思う。(妄想)

2018/10/21 11:24

ブコメしたのだけど追記。

私は、件の漫画で描かれてるお姉さんと男性の件に関しては、少なくも漫画を読む限り、相手の意思を考えず自分の思うような関係性に持ち込もうとした点に於いて、男性側が悪いと思うし、既存の男性のイメージに引きずられ今回の件を女性側の責任とした言動をしていた点に於いて、周囲の同僚達も悪いと思う。

もちろん、この漫画は女性側の視点のみを取り上げているわけで、実際どうであったかを客観的に調べなければ真実は見えないという批判はあり得る。
でもそこに踏み込み、客観的に両方の情報を集めて真実を見出すことは私の手に余る。
そこのところは申し訳ないが、ご本人たちにお任せしたい。

自分の中の相手像と現実の相手のズレ

私が、今回の件で不謹慎ながら興味深いと感じたのは「相手像のズレ」という点だ。

人は、他の人を認識する際、相手が実際感じたり考えたりしていることを直接感覚することは(たぶんほとんどの人は)できない。
そこで、自分の感覚器を通して感じ取ることが出来る、相手の見た目、雰囲気、言動、仕草、匂い、実績、評判、その他その人に関するあらゆる情報、さらに相手を構成する様々な要素(件の男性なら「老人」「男性」「同僚」「年上」などなど)に対するイメージを元に、自分の中に「相手像」を構築し、それを通して相手を認識し、相手像の言動として相手の言動を見聞きし、判断する。

言ってみれば、レイヤーのデザインを相手に任せたVtuber同士みたいな状態だ。

この相手像も構成要素となる様々なイメージも、自分の脳内で作られた概念であって相手そのものではない。
だから当然のように、脳内のそれらの像やイメージと現実の相手との間にはズレが発生する。
もし仮に相手が「自分の本心」と称するものを出してきたとしても、それが相手の本心だと信ずる根拠はどこにあるか?
あるとすれば自分の中の相手像だ。相手像とその「本心」とがかけ離れたものでなければそれは信ずるに値する。と、考えざるを得ない。ならば、相手の真の姿を追い求めることにどれだけの意味があるだろうか?

そうして私達は、本当の本人自身を認識することを諦め、自分の中の相手像によって相手を知った気になり、その人に対する判断・対応をルーチン化する。相手の言動が自分の中の相手像から大きく離れないのなら、それ以上深く考えないでその自分の頭の中の相手像を鵜呑みにして生活をする。
それ自体は悪いことではない。ズレが不可避である以上、それをある程度受け流さなければ緊張状態がずっと続くことになり、精神が参ってしまう。

件の漫画に於いて、男性が「女性と性的なお付き合いができる相手と勘違いしていたこと」と、女性が「男性を無害なお友達と勘違いしていたこと」に関しては、仕方がないのではないかと考えている。
それぞれの立場に共感する立場の人にしてみたら、相手の感じ方は明らかに勘違いであり、生理的に納得行かない許せないものに感じられるかもしれない。でも、その人の頭の中の相手像がそうならその人にとっての相手はそういう存在なのだ。脳内の相手像を通さず、相手そのものを直接認識出来ない以上、どのようなズレも起こりうる。
それを責めても意味がない。自分も相手も周囲のみんなも、完全な正解を知ることは永久に出来ないのだ。

ズレの修正とズレをなかったコトにすること

だから、問題なのはそのズレが判明した後だ。
相手の中の自分像と、自分の中の相手像のズレが判明すると、それぞれの中の相手像は揺らぎ危機的状況に陥る。
これを根本的に解決するには、自分の中の相手像を修正する必要がある。そうした方が理にかなってるし、相手に対して誠実だと言える。
だがそれは相手に関する全ての情報の再検証が必要となるため、精神的な負担を伴う。

そこで、それが嫌な人はそのズレを無かったことにしようとする。
自分の中の相手像を不動のものとして、そのズレを認識するきっかけとなった事象を、それが起こり得る他の要素のせいにしてしまうのだ。

今回の場合、男性は、女性に対し「自分とあなたは性的なお付き合いができる関係性である」ことを認めさせようと様々な言動を行い、最後には無理矢理既成事実を作ってしまうことで、自分の中の相手像を守ろうとした。
周囲の人たちも、女性の主張により危機に瀕した自分の頭にある件の男性の相手像を守るため、女性の側に問題があったからそうなったと考え女性を責めた。
どちらも自分の中の相手像(男性の中の作者のお姉さん像&周囲の人の中の男性像)を守ろうとして、作者のお姉さんにそのズレのつけを払わせようとした。

これは極めて不誠実だし、不条理だ。
「相手像と現実とのズレ」が不可避であったとしても、否、不可避だからこそ、自分の中の相手像を以て現実を変えようとする態度は傲慢だしするべきではないと私は思う。

(もちろん、自分の中の相手像を相手に伝えることは許されるべきだ。
今回の場合、男性側が、女性側を性的対象と考えている旨をアピールすることは、例えそれが女性側の持つ相手像を壊すものであっても、認められるべきだし、女性側が、男性側を性的要素の無い友人としてしか考えてないことをアピールすることも当然認められるべきだ。
そうでなければ、相手像を修正するきっかけを得ることが出来なくなってしまう。)

ズレを無かったことにしようとする人を表現すること

ところで、以上は倫理的な視点からの考察なのだが、表現論的な視点から考えるとちょっとそこまで言い切れなくなる。

この「相手像と現実とのズレ」は極めて人間の特徴的な要素であり、神話を初め古今東西様々な物語において組み込まれている。
倫理的には「相手像と現実がズレているなら相手像を修正すべき」と考えるが、こと物語においてはそうとも言い切れない。修正したくても出来ない弱さもまた人間存在の有り様の一つだからだ。
そして世の中にはたくさんの「相手像と現実がズレた時に現実を変えようとする人々」が描かれる。中には好意的に、あるいはポジティブに描かれる場合もある。
「倫理的に批判されるべきことを行う人々が表現の中には多く存在すること」は、批判されるべきだろうか?

私はそれは許容されるべきだと思っている。
表現は「自分の中の相手像を相手に伝える行為」に当たると思うからだ。
例えば件の漫画では正に「相手像と現実がズレた時に現実を変えようとする人々」が表現されているが、それによってそうした人々の存在を知らなかった人々の中にある相手像が揺らぎ、危機に瀕する。修正の必要が出てくる。
そこで的確に修正を行えれば、そこで表現された様な状況を体験しなくても、相手像はより現実に近いものになっていく、はずだ。
少なくとも、全く無批判に自分の中の相手像を盲信するよりはマシだと思う。