排除としてのゾーニングと共存のためのゾーニング

最近もやもやしているテーマ。

表現の自由に対する公的な規制強化は論外として、

ある表現物によって傷つく人がいた場合、その表現物が誰もの目につく所に掲示するのは傷つく人に対する加害行為だと言える。
と言ってその表現物を誰も見れないようにしたり、破壊してしまうことを要求することは、その表現物を作った人に対する加害行為となる。
この場合の合理的な落とし所は、その表現物を見たいと思う人間だけがアクセスできるようにすることだろうと思う。いわゆるゾーニングだ。

だがゾーニングすることはそのゾーニングされたものを排除することではないか?
多様性を持ちつつ共存できる社会を良しとする場合、それは正しいのか?

共存のためのゾーニング

理想を言えば「誰もが他人の有り様を受け入れつつ、自分も有るべき姿で有ることが平和に出来ている状態」だろうと思う。が、それはたぶん無理だ。

多様性を確保するということは「自分の有り様を否定する人間の存在を受け入れる」ということだ。
それを自分の理念として掲げるのは良い。また相手に語りそれを求めていくのも有りだと思うが、強要するのは間違っている。
強要をありとするなら「○○は△△に奉仕すべきだ」と考える△△がそれを○○に強要することと一緒だ。それは間違っていると思う。だから強要するのはたぶん間違いだ。
だがそうなれば、関係性は一方通行になる。

片方は受け入れ片方は排除する。それは結果的に排除そのものを許容することになる。
マハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」はそれに対する解の一つなのだろうと思う。
暴力による排除はしないがその支配に服従もしない。
これは反抗するための方法だが、同時に共存するための方法でも有る。そして共存する方法ではあるが、融合する方法ではない。

融合、つまり均質に溶け合うのではなく、個々を保ったままでしかし共存するということ。
均質に溶け合うということは自分が無くなるということで、そんな状態で共存できてもそれは多様性の否定に他ならない。
多様性を確保するためには個々であることが前提になる。だが存在そのものが他の存在への加害となるなら直接触れることは平和を乱すことになる。
なら、直接接触しなければ良い。
…と、そんなことを考えていくと、ゾーニングは平和共存のための方法として必要なものなんだと思えてくる。
排除のためのゾーニングではなく共存のためのゾーニングだ。

理想のないゾーニングは排除にしかならない

ただねえ、人は自分の目の前にある、直接触れられるものを全てと思いがちになるもので、ゾーニングによって直接触れることがなくなったものは、この世には存在しないモノとおもってしまう可能性がある。SNSなんかではよくある光景。それは共存といえるのだろうか?とも思ってしまう。

ところで、曹洞宗の言葉に「只管打坐」という言葉がある。
「悟りを得ようとして座禅するのではなく何も求めずただ座る」ことで曹洞宗の根本と言ってもいい考え方の一つ。
この考え方はつまり「煩悩を捨て悟りを求めることもまた煩悩なので、煩悩を祓わず悟りを求めずただ座ることが悟りを得た仏の在り方なので、仏になるのではなく仏であることを体験せよ」ということだと思う。

自由・共存・多様性を求める心は、前世紀に比べたらよほど強くなり広まり当たり前になっているのではないかと思う。
一方で、世界がどんどん窮屈になってきているようにも思う。
実はこれ相反する話ではなく、自由・共存・多様性を求める、当たり前とする心が強くなったからこそ、束縛・分裂・排除・均質性がより強く感じられるようになってきているということではないだろうか。いじめの問題が話題になるといじめの報告件数が増えるみたいな話。
光が有るから影が生まれる。
求めるから遠のく=距離を意識してしまう。
それを無理やり近づけようとするあるいは遠ざけようとすることは問題を悪化させることにつながるような気もする。

もちろん、ハラスメントによって傷つけられる者がそれを当たり前として受け入れるのが当然な状態が良いとは思わない。けど、ゾーニングによって自分の周りに自分が不快に思うものが見当たらない状態になることが最終的な目的としたら、それは「排除のためのゾーニング」でしかない。

山奥の煩悩の種が少ない清らかな状況で平穏を手に入れても、刑務所の規則正しい生活で自分が真っ当な人間になれたと感じていても、それを汚穢物欲溢れる巷で貫けるかどうかはまた別な話。
上で理想として書いた「誰もが他人の有り様を受け入れつつ、自分も有るべき姿で有ることが平和に出来ている状態」というのは、いわば「汚穢物欲溢れる巷でもなお仏としてある」ようなことなんだろうと思う。
それはすばらしいことだが、ほとんど不可能に近いと思う。

でもそれを理想として掲げた上で初めて「共存のためのゾーニング」は正当性を持ちうるのだと思う。