平等な立場間の“表現の自由”

真木よう子コミケ参戦→中止」関連の記事を読むと「コミケは全ての表現者に開かれている様な事を言っておいて、実際には気に入らない者を排除している。これは表現の自由の侵害だ。」的なことを言っている人をけっこう見かける。

私自身はコミケに参加したことはないし真木よう子氏についても知らない。
ただ、この件に関し「表現の自由」という言葉を持ち出すのは間違っていると考える。

平等な立場間の「表現の自由」とは

本来自由とはなにか?という話だが、少なくとも憲法で語られている「表現の自由」は「国家権力からの自由」である。
国家権力がその力を以て国民の表現行為を阻害してはならないということ。
憲法は国家が国民に対して結んだ約束であって、そこに書かれていることは全て国家対国民の文脈で理解すべきである。
だから少なくとも憲法で語られている「表現の自由」を今回の件で持ち出すのは間違っている。

…ということなのだが、この「表現の自由」という言葉は独り歩きしがちで、ある人が別な人の表現を批判したことを「表現の自由の侵害だ」と言い立てる人は実際多い。
「国家からの自由があるなら、他者からの自由も認められるべきだ!」と言うわけだ。

Aの自由を認めることがBの自由を確実に阻害する場合、そのどちらの自由を認めるべきかはその時その状況で変わる。
それに、例え一度は自由を認めたとしても、無限にそれを受け入れることは出来ない。
この世にありとあらゆるものは、それぞれキャパシティがあり、それを超えるものを受け入れる事はできない。
実際問題、コミケにはたくさんのサークルが参加申込をし当選するのも一苦労だと聞く。
つまり、悪意ある言い方をすれば、常時ある程度の人達の「コミケで創作物を頒布することによる表現の自由」は運営側によって阻害されているわけだ。
だが、それを行わなかったらどうなるか。
スペースには限りがある。詰め込みすぎて通路が塞がれでもしたら一般参加者は全く入れなくなるだろう。仮に入れたとしても会場が混乱するのは確実。頒布どころではなくなるだろう。本末転倒だ。
ある程度の人達の表現の自由を確保するためには他の参加者の自由をある程度阻害する必要があるということだ。

100%完全な理想の実現も100%完全に阻害されない自由もありえない

(「なら“全ての表現者に開かれている”なんてのは嘘じゃないか。」という人もいるだろう。
それはその通りだ。
だが、嘘として断罪されるその言葉は彼らが目指す理想を言葉にしたものであり、実際限定的ながら彼らはそれを実現している。
そう限定的でもその理想を実現しているという点が重要なのだと私は思う。
100%実現はしていないが、0%ではない。
上述したようにあらゆるものにキャパシティがある以上、全ての理想は常に裏切られる運命にある。だが一方で、理想を言葉にすることは多くの人が共に一つの方向に向け進むことを可能せしめる。その結果、その理想は少しだけでも実現出来たなら、その理想は十分な仕事をしたと考えるべきだと思う。)

話を戻す。
あらゆるものにキャパシティがある以上、誰かの自由が無制限に認められるということはない。
互いの自由を認める以上互いに「100%完全に阻害されない自由」はないのだ。
だから当然のように自由と自由の突き合わせが行われ折り合いを付ける必要が出てくる。
私は今回の件はそうした折り合いの範囲の話だと思う。


(これが国で行っている事業で、その内容や参加者の顔ぶれで参加認定が左右されるというなら「表現の自由」を語るべきだろうけど。件の発言をしているような人達ってそういう話題には興味がない様子。)