神にならずに限界の範囲内で良い

anond.hatelabo.jp

この記事に対し

差別は悪って言うやつって

人間が生きてるだけで膨大な数の微生物他多くの生命を奪っているのだから、自然保護とか生命は尊いとか言う権利はないよ的な話。潔癖さは差別を育む揺り籠。

2017/08/18 08:23

ブコメしたのだけど追記。

ブコメの最後の所は最初
「違うレイヤーの話を持ち込むのは楽しいけど社会的には役に立たない」と書いて、ちょっと違うと思って書き換えた。
これでもなんだかちょっと違う。100字制限は難しい。

私自身のスタンスは、件の記事の冒頭で

それともある一定のラインの差別までは許して、できるだけ差別しないようにしようねってことなの?

とあるがこれに近い。
ちがうのは「一定」である必要はなく、その場、その時、その世界で存在を認知し合えるもの達が、互いに可能な限り平和に共存し合えるラインを都度模索して決めるべきだと考えている点。
だってすでに「認知できる範囲のことしか認知できない生物」としてここに存在している以上、そこをスタート地点にするしかない。


記事主が言う通り、存在することだけで差別が生まれ許容されてしまうということはあると思う。

そもそも全く差別のない完全平等な世界は作れるだろうか。
私は無理だろうと思っている。
生まれ落ちた時点で存在自体に差がある以上、完全に平等な状態などありえない。
大体見たり聞いたり感じている世界自体がバラバラなのだ。平等ってどこに設定できるのか。一定のラインを引けるはずがない。

だが、だからと言って差別をただ許容することを良いとは思えない。
我と彼とが共存する。その状態で我か彼かあるいは両方に不都合があった時、その不都合をそのまま許容することを強要するのが差別だと思うのだけど、不都合があったと認知できたなら、できるだけその不都合を解消しようと努力することは、共存しやすくなることにつながるのだからお互いにとって悪いことではないと思うからだ。

記事中の「認知できない被差別者」のことで言えば、人間が「認知できる範囲でしか認知できない生物」であるかぎり「認知できない被差別者」は消えることはない。これはコインに表がある限り裏もあるみたいな話で、無くなることは絶対ありえない。
だが、だからと言って「認知できる範囲内の被差別者の状況の改善を目指すこと」は少なくとも悪ではないとも思う。
古来の差別からの開放運動には、被差別者だけでなく差別者の側にいる人間も協力して進められてきた例がゴマンとある。

差別を行っている人間が差別を行わなくなるためには「自分が認知できなかった被差別者の存在に気がつく」ことが必要だ。
だとしたら、被差別者の存在を認知している者が差別している者にその差別の存在を訴えることは、差別を無くすきっかけとしては十分価値のある行動だと思う。
(もちろん、言動を選ぶ必要はあると思う。差別するからと言って悪人扱いしたり侮辱攻撃するのでは差別者差別にしかならない。)

神の視点を想像したら頭がおかしくなるのは当然。
そのせいで何も出来なくなるくらいなら、限界ある人として限界の範囲内でベストを尽くすで良いのではないだろうか。
それなら少なくとも、認知できる範囲内の誰かの生活を少しだけでも良くすることが出来るかもしれないんだから。