死んで花実が咲くものか

宇都宮の元自衛官自爆事件について書かれた

これこそがテロなんだと思った: 極東ブログ

この記事を読んで、ではなぜこの事件が「テロ」と呼ばれないのかを考えてみた。

この事件といわゆる一般的なテロとの共通する構造

テロとはそもそも何か?
分かってるようで実は明確でない。その定義は様々なようだ。

外務省のこのページを見ると、中段辺りでテロは以下の様に定義されている。

テロに国際法上の定義はありませんが、一般的には、「特定の主義主張に基づいて、国家などにその受け入れを強要したり、社会に恐怖を与える目的で殺傷・破壊行為(ハイジャック、誘拐、爆発物の設置など)を行ったりすること」を指します。言い換えれば、「テロ」とはとても広範囲で多岐にわたる行為を含むものであり、その形態には実にさまざまなものがあります。

妥当な説明だと思う。
これを定義として考えた場合、今回の事件の場合、犯人の主張は特定の主義主張に基づいているとは思えず、国家に対する具体的な事項の受け入れの強要もないように見える。
現場で見つかった遺書には「命をたって償います」とあった様だが、これは主義主張とは言えないだろう。

犯人のブログは怒りと不満とに満ちているが、ではと言って具体的にどういうことを周りにして欲しいのかという具体的な主張は、少なくとも私には汲み取れなかった。辛かったのは分かる。納得できないのも分かる。だが例えば、ブログの最後のエントリーのタイトルで並べた「内閣官房 内閣法制局 内閣府 宮内庁 国家公安委員会・警察庁 総務省 法務省 文部科学省 厚生労働省」などに対し、具体的にこういうことを受け入れろという言葉はない。

ブログの記事のほとんどには「宇都宮家庭裁判所が栃木県知事から任命された栃木県地方精神保健福祉審議会委員を5年間連続で欠席している」という一点だけを執拗に繰り返しているが、これは離婚裁判が自分の望む方向に進まないことに対する不満を社会正義的な話に転換して語ろうとしているだけの様に見える。

彼が妻に対するDVで訴えられ敗訴したこの裁判、もし仮に彼の望む通りに進んでいたらどうだっただろうか。
たぶん、彼は死ななかったのだろう。
だが裁判における妻側の主張なども見れば、彼の主張は無条件に受け入れることは難しいものであると感じる。

彼のブログの中で後半の方に「死んだら認めてやると裁判官に言われた」旨の記載がある。
記録も無いと書いているから彼の幻聴だった可能性は極めて高いが、強いてこのブログの中で、のちの自爆事件と絡めて彼が訴えたいことを抜き出すとしたらここの部分だろう。
この裁判官に言われたとされる言葉は、自分の価値観の表れなのだろうと思われる。「死ねば認めざるを得ない」と彼は考えていたから、死んででも自分の主張を認めさせたいと考えた。

そこまで考えれば、これは一般的な政治的テロと構造的には何ら変わりないと言うことがわかる。
そして逆に言えば、そこまで考えなければこれをテロと見ることが出来ないと言うことでもあるのだろう。

政治的努力の放棄=共感獲得への努力の放棄?

「政治的テロにおいて大事なのは犯行声明」とはよく言われる。
既存の政治システムを使い、そのシステムの中で合法的に自分たちの主張を認めさせ、その主張に応じた政治状況・政治体制を構築すること。本来取られるべきそうした手段ではなく恐怖と暴力で自分たちの主張を認めさせているだけ。
テロリストはテロ行為を既存の政治システムに対する代替行為と考えている。

だからそこには当然の様に主義主張に基づいた犯行声明が付いてくる場合がほとんどだ。
犯行声明が無ければ、彼らにとってすらテロがただの犯罪行為でしかなくなってしまうからだ。

私たちはそれに慣れている。政治的な主義主張の実現を目指すテロ行為の存在に慣れている。
だからテロと言ったら必ず主義主張に基づいた犯行声明がある、と思っている。

だがそれは、テロ集団といえど、たくさんの人々が関わって行く中で、彼らの思いを彼ら自身が皆で共有できる主義主張にまとめる過程を踏まえたからそういう主義主張が語れるし犯行声明も出せるのだ。

彼の場合はどうだろう。

彼のブログで語られる不満は絶望は、不満や絶望の表現としてはよくわかる。
だが、それを踏まえてこうあって欲しいという理想、あるいはその実現のためにこうして欲しいという手段については、あまりに朧気だ。

おそらく本人の資質もあったろうし統合失調症の疑いもありそうだから難しかったとは思うが、もし彼が己の不満・絶望を元に、どうあるべきか、そのために何をすべきかを明確にすることが出来たら、その主義主張を明示して今回の自爆事件を行っていたら、この事件は当初から自爆テロとして報道されていたかもしれない。

否、否。

それが出来ていたら、彼はたぶん別な手段を選んでいたのではないか。

もっと他の人が理解し共有・共感できる形で自分の思いを言葉にできたなら、彼はこんな形で主張を行う必要は無かったのではないか。
政治的テロリストが既存の政治システムを拒否してテロ行為に出るように、彼は「他の人との交流を通して世界を動かすこと」に絶望しそれを拒否して強制的に自分の思いを認めさせるために今回の自爆行為に出た。

「自分の思いや考えが他人に共感される」

自爆の前にその経験があったなら、否、それを感受する余裕があったなら、その経験を通しての彼自身の変化があったなら、彼は自爆する理由を失っていたのではないだろうか。
だが、彼はそれを得ることは無かった。だから彼は自爆したのだろう。

動いた先が見えない行為は動かしたことにならない

とは言え、だ、彼のブログを読んでそれに共感しろと言われても、少なくとも私には無理だ。
当事者だって(いや当事者だったら余計に)難しいのではないかとも思う。

妻が宗教にはまった、娘が統合失調症になった。
だからと言って、自分のDV行為などを理由に起こされた離婚裁判について、その判決を不服とするのはともかくだいぶねじれた方向で裁判所批判を始める人が身近にいて、その人を理解しなければその人が自殺するよと言われても、私はたぶん無視するだろう。
無理だ。私にそんな余裕はない。彼の身近に私がいても彼の自爆は止められなかっただろう。

どうしたら止められたのだろうか。
正直絶望的な話だ。
そして絶望的な状況では、人は自分の命の価値を高く見積もりがちだ。
絶望的だからこそ、0に極めて近い命の価値を0にしないために死ぬ。
自殺とは「自分の世界を終わらせる行為」だ。

だが、「世界を終わらせること」は「世界を動かすこと」のうちに入るのか否か?

希望があるなら人は死なない。死ねない。
希望を持てる人が一人でも多くなることが、こうした極私的テロを減らすための方法なんだろう。
希望とは畢竟「自分に世界を動かす力がある」という確信のことだ。

彼はその死によって、それに対する報道を起こさせ、それを見た人にブログ記事を書かせしめ、その記事を見た私にブログ記事を書かせしめている。これは彼の死が私を動かしたことになる。
だがもちろん、そんなことは彼にとってはたぶん全く価値のないことだ。

「彼に直接関わりないから」ということではない。
彼は死んでしまったからだ。

政治的テロの場合、自爆した人間は自分の死が残る人々の希望になると考える。
彼の死は彼の死でしかない。
彼がおそらく本当に得たかった人々の共感がこれによって発生したとしても、彼はもうそれを感受することができなくなった。
彼の行為によって動かした結果を感受できないなら、その変化は少なくとも彼にとっては無いのと一緒だ。
(これもまたテロと呼ばれない原因の一つなのだろう。主張の結果の受け手がいないという点で。)

だから「自分の世界を終わらせること」は「自分の世界を動かすこと」には入らない。

あの自爆が何千人何万人を殺すような結果につながっていたとしてもだ。
政治的テロがその主義主張に関わらずただの犯罪だ。同じく今回の事もまたその思いに関わらずただの犯罪だ。
世界を動かしたいなら、動かせると実感したかったのなら、彼は死ぬべきではなかった。

この世にあるありとあらゆるものは、その存在そのものによってそれと関わる全てのものに有形無形の影響を与え動かし続けているし、自らもまた動かされている。
それが自分にとって望ましいものでなかった時にそれを望ましい方に変えようと考えるのは業であり、自業・他業もまたさまざまに絡まって世界を複雑に動かしつづけている。

屁理屈で言えば、彼は生きているだけで世界をある方向に動かしていた。
その実感を感じることが出来ないだけ(また、自分の望む方向でなかっただけ)で。

彼は死ぬことで自分を絶望の淵に固定してしまった。
世界を願う方向に動かしたいなら死んではだめなのだ。