お祭りと馬鹿

 

この記事に対して書いたブコメに補足。

 

この記事に対して微妙な感じを受けたのは、「地方はどうでも良いのか」という点なんだが、それともう一つもやもやしてるのは「ハロウィンで騒ぐのは馬鹿なのか?」という点。

大前提としてお祭りで羽目を外して周りの迷惑省みず大騒ぎしている人々は、馬鹿か理知的かと言えば馬鹿だろうとは思う。

 

ただ、お祭りに際し馬鹿騒ぎせず理知的であることは理知的なのか?馬鹿騒ぎすることは馬鹿なのか?というと、微妙な話だと思うのだ。個人差が非常に大きい問題と言うか。

 

大体がお祭りと言う奴はなんで存在してるのかと言えば、そのお祭り毎に由来が色々あったりなかったりするが、一つ共通して言えるのは、それらは「日常の連続の中に有る非日常」である点じゃないかと思う。

もちろんその度合いもお祭り毎に個体差が有るのだが、明確な由来がなくてもお祭りは発生している(もちろん発生しないところも有るが)という点は興味深い。

たぶん、人にはお祭り…というか非日常の時間が必要なのだろう。なぜだろうか。

たぶん、非日常によって日常を相対化出来るからではないかと思うのだ。

 

お祭りの時だけ出て来る屋台や飾り、お祭りのためだけの踊りやお囃子、お祭りのためだけの人間関係、お祭りを実現するための準備は長いスパンではその共同体の日常であるが、人の通常の感覚では日常の中に入り込んだ異質な時間だ。

相対化は異質なものが存在して初めて可能になる。そして相対化は内部の絶対化を手助けする。

相対化されない状態の世界ではそこにいる個人の差が大きな意味を持つ。

「私と彼は違う」にどうしても目が行く。

だが、その共同体に異質な時間が来ると「いつもの私達と今の私達は違う」という点が浮かび上がる。

もちろんその意味の解釈は人それぞれなので、その効果も様々なのだが、不思議と共同体への帰属意識が醸成され、共同体への不満が軽減されることが多いように思う。

思うに「私と彼は違うがより大きな目で見れば私たちは共通の船に乗った存在なのだ」ということを体感させる効果が発揮されやすいということなのだと思う。

辺縁の人ほど中心の人より帰属意識が強いとはよく言われることだが、これは異質なものがすぐそこにあることによる相対化が置きやすいためと言える。

相対化がより強い絶対化を加速するというのは皮肉だが、グローバル化した世界で右傾化が各地で進んでいる現状は正にその反映かもしれない。

 

閑話休題

 

お祭りは日常を相対化するための時間である、ならば、非日常を楽しむことこそが本来的には正しい過ごし方と言えなくもないのではないだろうか。

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソンというあれだ。損か得かはともかく、日ごろ理知的な人間が阿呆になることにこそお祭りの価値がある様に思うのだ。

 

 

もちろん、日常的な視点で判断するなら馬鹿だろうし、そういうのが嫌いな人があっち行けと言いたくなる気持ちは正直わからないではない。

それはブコメでも書いたが差別意識の現れでもあるのだが、無意識の差別意識が表層に現れるのは正にそういう時で、その時こそ自分の差別意識を意識できるチャンスでもある。

そういう変革のチャンスともなり得るのだ。

これもまた、お祭りの相対化の効果の一つ…と言うのは言い過ぎか。

 

(革命や変事がお祭りをキッカケに起きるなんて話は歴史上に散見されるのも、相対化した結果絶対化する価値は無い!に大きく傾きやすい時間だからだったりするのでは。)