落語もメディアの一つ

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この記事に対し

一人で全部を演じる「落語」は本当に面白いのか? (メディアゴン) - Yahoo!ニュース

うわあ、多様性が拡大した現代でこんなこと言う人が…。わかりやすい表現だけが客にとってのメリットと言うならテキストは滅ぶべきなの?想像力を働かす幅の違いがメディアの違い。それを選ぶのも表現の一部だ。

2016/09/23 23:27

ブコメしたのだけど補足。
これで件の記事にPVを与えると思うとどんだけ優しいねんワシと思うけど、置く。

分かりにくいことはメディアとしてダメなことか

落語の形式は、あくまで様々な表現形式の中の一つであり、メリットもあればデメリットもある。
それらのメリット、デメリットを勘案したうえで、そのコンテンツの表現にそのメディアを使うのが効果的か否かを語るのなら話は分かるが、「わかりやすか否か」で語るには明らかにおかしいと思う。
端的に言えば、「わかりやすい」ことはそんなに客にとって良いことなのか?ということだ。

例えば「シン・ゴジラ」や「エヴァンゲリオン」だ。
膨大な情報量を詰め込んだ展開。一回ではたぶんわからない。
もちろんそれゆえに「私はつまらないと思った」は有りだ。
だが、私はあれゆえにぞくぞくするような面白さを感じたし、同様に感じた人もそこそこいたと思う。
あるいは古典的な作品の多く。
ずっと読み継がれていて、その当時の社会に関する知識がなかったり文体を読みこなすことができないと楽しめないそんな作品群が、得も言われぬ新しい知見につながることは多々ある。
困難さは得てして発見や改革や新しい知見への入口を開くきっかけになる。そのゾクゾクする快感よ。

もちろん「わかりにくいことが正義」と言いたいのではない。
だが、わかりにくいこともまた魅力になりえるということを言いたいのだ。

客の数×コンテンツの数だけ響く方法がある

故・立川談志は、その後半、いわゆる落語調という物に対し反抗をしていた人だが、だからと言ってそれを否定はしていなかった。
伝統芸能としての落語の維持に、落語調がどれだけ寄与してきたかを知っているからだ。
パターナリズム、マンネリ、長い年月の変動に耐えうるスリム化の果てにまつそうした難点、それもまたある種の人々には魅力となりえる。

客の数×コンテンツの数だけ響く表現方法がある。
問題なのはその時代その人々を前にどのコンテンツをどういう方法で表現するかであり、それ自体もまたコンテンツの一部だという点だ。
言語情報が多い少ない、肉体に頼ってるor言葉に頼ってる、目で見える見えない、聞こえる聞こえない、触れる触れない、そうした様々な要素の組み合わせによってさまざまなメディアが生み出されてきた。
そしてそれらのメディアごとにしっくりくるコンテンツ遠いコンテンツがあり、それらをそのコンテンツで最適化するための努力が古典的なメディアであるほど繰り返し行われてきた。
その弊害はもちろんある。でもその弊害だけを語ることはメディアの特性という点を見誤ることにつながる。

件の記事で筆者は一人が演じ分けることの弊害を語っている。
が、一人が演じることによって完成度を高めやすいという利点については一言も語らない。役の数だけ役者を出し場面の数だけ舞台セットを変え、それらが「客にわかりやすいコンテンツを作る」ことにつながると、それをしないのは単に表現者の怠慢だと断じている。
が、だ、
あるプロジェクトに関連する人が一人増えるごとに、それを一つに軸にまとめる困難さは等比級数的に増していく。
それは逆に言えば、一人の演者がすべてを表現する形式であるほど一つの軸にまとめることは極めてやり易くなるということだ。
それはつまり、表現としての完成度を高めやすいということだが、その代償が一人での演じ分けであり一人多役の難しさであり言葉中心の演技方法。それをあえて選ぶのか否か。

膨大な費用とスタッフを動員して撮られた映画より完成度の高い一人芝居がドスンと胸を突くという経験は0ではない。逆ももちろんある。
そしてどちらを選ぶかは、あるいはどの程度分かりやすい・分かりにくい表現を選ぶかは表現する人間の求める物によって決まるし、それを見聞きするかどうかは、それを見聞きする人間がそれを求めるかどうかによって決まる。
それ自体が、表現行為の一部なのだ。

落語のメリットデメリットを語るなら

繰り返すが、落語なら何でもOKと言いたいわけでもたくさんの人が絡んだコンテンツがダメというのでもない。どちらもありなのだ。
そしてそれを判断するのはそれを見聞き感じる一人一人であり、そしてその判断はあくまでその人にとっての判断であって絶対的真理ではけしてありえない。

「今の落語が今のやり方に安住していていいのか?」という話はもちろん語られるべき話ではあるが、その代案として演劇やら映画やらみたいな表現を最良として持ち出すのは悪手過ぎる。
言葉一つで済む場面で法律だとか弁護士だとか持ち出す様な仰々しさと言うべきか。
メディアを語るなら、それぞれのメディアの限界とメリットとデメリットを把握した上で語るべきだし、それぞれのメリットをメリットとして語れない人間はそのメディアについて語るべきじゃないと思う。

…まあ、「落語はわかりにくい」という批判を、読み手の想像力や知識や解釈に全てを委ねるテキストメディアで行っている時点でおかしいと思わない感覚の持ち主である時点で、何をかいわんやなのだが。
(なぜ画像でもっとわかりやすくしない?動画を使わない?自分の文章は誤読される可能性が全くないとでも思ってる?それって怠慢じゃないの?)
(でもそうした合理性より、それによってアクセスが増えるからとこのメディアを選んでるというならこれ以上言うべき言葉は無い。)

追伸
もちろん、落語に携わってることだけを以て、あるいはパターナリズム金科玉条として疑問抱かずにいることを、あたかも崇高な指名を果たしているかのごとく語り振る舞う一部の増上慢の塊を認めろと言うつもりはない。
「私はつまらない」は「私はつまらない」なのだ。その人にとっては絶対なのだ。
落語であるだけで「無条件で評価されるべき」と考える人間は、落語であることを以て責める件の記事主と同類だと思うから。