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「一生現役=ぽっくり死」への願い

poremoto.hatenablog.com

この記事、とても素敵な話で、また同時に介護に実際携わっている方々にとってはとても切実な要素を含んだ記事なのではと感じている。
私自身は今のところ親などの介護をすることもなく来ており、できることならこのまま介護することなく行けたらと考えている愚か者なのでこうした問題に対して本来発言する言葉を持たないと思ってはいるのだけど、この記事を読んで

オシャレしてケアホーム - 今日もぽれぽれ

とてもいい話&切実な話。/会社みたいな雰囲気のケアホームとかがあっても良いのかもしれない。いつまでも現役の様な雰囲気を入所者が味わえるの。(星新一の「コーポレーションランド」みたいな)

2016/09/21 16:36

ブコメさせて頂いた。
これについて補足したい。

「一生現役」と「ぽっくり死」

「一生現役」を願っている人はたぶん結構多いと思う。
最後の最後まで自分の力を十全に発揮して生きたいと願うこと。これは同時に「死ぬ時はぽっくり死にたい」ということでもある。
ぽっくり寺というのがある。
参詣するとぐずぐずと体調崩して寝たきりになったりせずぽっくりと死ねるという言い伝えのある寺だが、これなんかも直前まで現役を求めるという意味で「一生現役」の陰画と言える。

また、西洋絵画に「死を思え(メメントモリ)」というテーマがあるけど、「一生現役を願う」ということは「“ぎりぎりまで死を思わずに生きたい”と願う形で死を見つめる行為」ということもできるだろう。

気を付けなければならないのは、「ぎりぎりまで死を思わずに生きる」ということは不可能なのだが、それを可能だと考えると、得てして増上慢な考え方に繋がりがちである点だ。
つい最近「人工透析は自業自得」と言った人がいたけど、この言葉の裏には「原因(自業)を作らないようにしていれば結果(自得)はやってこないはずだ」という考えがあるし、それは同時に「自業を作っていない自分は当然人工透析を受けるようなことにはならない」という自信にも繋がっている。
こういう人たちは、無意識に「自業」だけが自分の運命を左右すると無邪気に信じている。
しかし現実の世の中は、ちょっと考えればわかるが自分の業だけではなくあらゆる人の(人だけでなくあらゆる存在の)業が複雑に絡み合って紡がれているのにそれを見ず、自分の業によってすべてが決まると考えているということだ。これが増上慢でなくなんだろう。

彼らと、「一生現役」を願う人やぽっくり寺に参詣する人の大きな違いは、「自業がすべて」と考えているか否かの違いと言っていいが、話がそれたので本筋に戻す。

「ぽっくり死」は肉体衰弱意気軒高な状態で起きる?

「一生現役」を願うということは「ぽっくり死にたい」ということでもある。だが「一生現役」を貫ける人は少ない。それを妨げるものは何だろう。
一番大きいのは(上の論調と相反するが)「自信」なのではないかと思う。

ある老齢の役者、矍鑠とし若手にも負けずそこに交じって最前線で役者をし続けたある役者が、ある公演でセリフが上手く出てこなくなった。セリフだけではない、それまで段取りなんかも(ある程度サポートされながらではあるが)問題なくこなしていたのがその公演ではそれができなかった。
と、その公演のけいこ中から急にその役者の雰囲気がぼんやりしていき、その公演の途中で降板、郷里に帰って音沙汰が無くなったが数年後に亡くなったという話を聞いた。
本人に話を聞いたわけではない、あくまで推測なのだが、その公演のけいこ中に自分が役者としてやれるという自信を喪失したことが生きる力を失わせたのではないかという気がする。それが彼の死を近づけたのではないか。
だがこれは同時に「(ほぼ)一生現役」だった役者の話でもある。

この話は、だから老齢の役者の切ない晩年の話であり同時に「一生現役」とは何かを示唆する物語でもある。

「自分は自分のやるべきことをやれている」という自信が本人の「現役意識」を刺激する。「現役意識」は生きる力に直結する。
「現役意識」が肉体の限界まで維持継続できた時、「現役意識」の有無がその人の生死とつながる。その状態、つまり肉体は衰弱し精神だけが意気軒高な状態までたどり着けば、あとは「現役意識」が途切れた時が死の時となる。
「一生現役=ぽっくり死」の成立だ。
(肉体が堅強な人は、「現役意識」が途切れることによる生きる力の減退があっても、肉体がそれを受け止め死に至ることは無い。結果寝込むことになるかもしれない、鬱になるかもしれない。それでも身体は死なない。比較的堅強だからだ。)

件のブコメは、そういうことを目指すケアハウスがあったら良いのにという軽い思い付きで書いた。
もちろん、介護の現場でそんなことを目指すことがどれだけ大変かはちょっと想像を働かせればわかることで、不謹慎なブコメだったと思ってはいる。
でも正直需要はあるのではとも思う。

世の中的に結果の残らない仕事を精一杯遊ぶ世界

ブコメ文中の星新一の「コーポレーションランド」というのはショートショートの一篇で、就職希望者がある会社の見学に来たらどこもかしこもまるでテーマパークの様に遊ぶ仕様になっていて…という話なのだが、この作品の世界では「遊ぶ」=「仕事」であり、通常世界で求められる「収益」などの「結果」は求められない。真剣に仕事を遊ぶ・遊びを仕事とする世界だ。
例えば、80年代位のビジネス環境を模した(まだPCで一般化する前。電卓と紙と鉛筆とボールペン。電話と手紙で連絡。直接会いに行くのが一番効率が良いみたいな。)会場で、データの整理、企画の作成、交渉、結果のフォロー、営業等々を行い、会社の寮を模した部屋に帰る様なケアハウスがあったら、会社人間だった男性などにとっては安らぎの世界よりも「一生現役=ぽっくり死」に近づける日々を送れるのではないだろうか?
もちろん安らぎの空間がいいならそちらに行けばいい。が、あの燃えるような熱い日日に憧憬を抱きつつ自分の肉体の衰えや周囲の環境ゆえに安らぎの空間に自分を無理やり適合させて生きるのをあきらめている人は結構いる様に思うのだ。

問題は、どういう仕事をさせるかだが、無理に現実とリンクさせて収益が上がることを目指すとか補助金を目当てにするとかするよりも、いっそ現実における収益や結果度外視で、彼らが「仕事」と思えるものに限定して仕事を創作・表現・発行し、彼ら自身からその料金をもらう形にしたらどうだろうか。仕事を楽しむ空間=仮想経済圏自体の運営をビジネスにするのだ。
仮想世界で、仮想の仕事をこなし、仮想の収益を得て、仮想の会社で昇進を目指す。(そしてその代償に利用料金を払う)
そんな施設。
セルバンテスの描いた「ドン・キホーテ」みたいに老いてなお己のあるべき理想とする姿を追い求めることができる施設。
(は!VRとMMORPGとケアハウスの連動とか?)


自分に立ち返った時、自分の親にもまた自分自身も「一生現役=ぽっくり死」して欲しいと正直願っている。
だがそうは都合よくいかないのだろうなあとも感じている。
感じているがそれでもなお、精一杯力を使い尽してぽっくりと死ぬことができる世界がそこにあるなら、そこに行きたいと願わずにいられない。