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ゾーニングの功罪

私はゾーニングが嫌いだ。

お前は入っちゃダメ。

そういう時に、大体はダメと言われる側だったのでそういう言動に対してなんとも嫌な感じがして、他人事でもぞわぞわする。

だが一方で、私は腰抜けの弱虫なので、そのことを荒立てゾーニングを無くそうと言う直接的な行動に出ることはない。

せいぜいがゾーニングはひどいなあとぼやく人々の後ろでそうだ全くだと心の中でつぶやくくらいだ。

 

だが、私の思いとは関係なく、ゾーニングは仕組みであり、仕組みは道具なので、結局は使う人間次第で毒にも薬にもなる。

 

ゾーニングの毒な部分は言うまでもなく、差別やヘイトの温床になりやすいという点だ。

ゾーニングはある違いに注目し、その違いを持つもの持たないものを物理的に区分けする行為だ。それは(個人の資質ではなく)その区分けによってその各自が得られるものに差がつくということだから、差別だ。

そこでは個人の微妙な違いなどは無視されその違いだけで判断される。微妙な違いを考察すると区別が出来なくなりゾーニングが効果を発揮できなくなるからだ。

たとえばだ、某国人を父に持つ人は仲間だが、祖父に持つ人は敵だと言って、その違いは効果を持つだろうか。持つだろうとは思うが「某国人の血を引く奴は全て敵だ」の方が圧倒的にわかりやすい。ヘイトはその方が無邪気に無意識に増強される。

そしてわかりやすい違いの方がゾーニングの効果は発揮されやすい。

 

ではゾーニングの効果とはなにか。

自分が同種の存在の中にいるという安心感を得られやすいという点だろうと思う。

安心なのだ。だってその中にいる人にとって、つまり自分にとっての敵は皆の敵だし仲間は皆の仲間なのだ。

古今東西のあらゆるコミュニティはそうして生まれてきたし、そうしたコミュニティはその存在の良し悪しとは関係なく、我と彼を区別し、場合によっては差別する装置として機能してきた。

ゾーニングはそうしたコミュニティ同士を物理的に分けてしまう仕組みで、多くの場合それは武力や壁などで明確に区切られるから、いわばその武力や壁によって、コミュニティの存立を守ることにつながる。安定性が高まるわけだ。

これは、多くの人にとって悪いとは言い切れない部分だと思う。だってその中では、共有する価値観のもとで発言した言葉は受け入れられ共感されるのだ。「⚪⚪死ね」と叫んだ所で、そのコミュニティにおいてそれが死に値する存在なら問題ないし、あるいは別の意味合いを含めた言い回しだとしてそれを理解してくれる人ばかりで構成されてるなら揚げ足取って表層だけで攻撃してくる人もいないはずだ。

その中でなら心穏やかに楽しく暮らせると言う人は、ゾーニングを認めない社会より多いのではと思ったりもする。

 

ただ、それはあくまで、そのゾーンにいる人と共通の価値観を持ち得る人たちの話だ。

人と交流し理解し合う能力に欠ける人間にとっては、そこは簡単に、敵ばかりが住む牢獄になる。

そしてそのことが、つまり彼がそのゾーンで共有される価値観を共有していないと明らかになると彼はこう言われる。

「なら出ていけ」

「他にも住む場所はあるだろ」

「無いなら我慢しろ」

結局彼は、牢獄の中で自分というコミュニティの僅かな猫の額のようなゾーンを足場に、日々を暮らすことになる。

実は、それはゾーニングが無くなっても一緒だ。他の多くの人と価値観を共有しづらい人はどんな状況になってもやはり一人であることが多いのに変わりは無い。

ただ、ゾーニングが無くなった状態だと、誰もが同じ状態だから、ゾーニングが確立してる状態より、彼は住みやすさを感じるだろう。

 

先程ゾーニングをするとその中で共有される価値観を持つ人は心穏やかに楽しく暮らせるというようなことを書いたが、ゾーニングがないと自分の価値観を他の人の価値観とある程度相対化させる必要が出てくる。

それは面倒くさいし大変だけど、それをしないと思わぬ敵を作ることになるから気をつけるしか無い。

そうすると、共有の価値観を持たない人間に対しても、理解しようと理解しなければと考える人が出てくる。そのほうが安全だからだ。だがそれは面倒くさい。

 

面倒臭いに流れた人は、自分と共有の価値観を持つ人同士で擬似的なゾーンを作る。

それがムラであり、空気であり。

そのムラや空気の中にいる人は、その中で交わされた言葉はその文脈や真意を汲み取った上で理解されるべきだと言う。

理解しように流れた人は、物理的には同じゾーンにいる以上、そこにいる人々全てにとってできるだけ理解受容可能な言葉で語るべきだと考える。

だがこの二つは同じ心の現れだと思う。

人に理解されたい、と、人を理解したい。

この二つは対立するものではない。

一人の中に併存するものだ。

 

で、件の人の心が汲み取れない人の一人である私にとっては、少なくとも皆がそうした心の有り様に目を向けざるを得なくなるという点において、そう、人の心を汲み取れない人もその人の心を汲み取れない自分と対峙しなければならなくなるという点において、ゾーニングが無い方が良いと感じる。

 

ゾーニングが無い状態というのは得てして無秩序な状態を彷彿とさせることが多いが、実は人間はそれほど無秩序にはなれない。

無秩序の中に秩序を見つけ出してしまう。

そうして見つけた秩序もまた、色々と仕組みを整えなければ早晩崩壊し、新しい無秩序の温床となり、そうして日々の生活が営まれる。

ゾーニングは、そうして見つけた秩序を、物理的な区別で永続化しようとする試みだ。

理想は理想のままに。

それは悪いことではない。多分美しい行為なのだ。

でも、物理的に作られた区別は、価値観を固定化する。個人の価値観なんて人の生活の中で日々揺らぐものだ。だが物理的な差別はそれを繰り返し個人の価値観に刷り込む。

それは個人の日々の僅かな進歩をリセットする。(学校の生徒間の階級秩序の中にいた時は、その秩序は永久不変のように感じたがそれは幻想だった)

 

ゾーニングがなければ、否応なく、他の価値観との共存を考えなければならなくなる。それはしんどい。僅かずつでも変わることを考え続けなければならなくなる。それは面倒くさい。

でも、生きるってそういうこと(僅かずつ変わることを味わうこと)だと思うので、だからゾーニングは良くないと思う。

 

でもゾーニングしたほうが楽に幸せになれる場面は沢山あるんだろうな…。

 

追伸

id:wattoさんが書いてくれた基本的なことがあったので追記。そうまさしくレンタル店のアダルトコーナーなどはゾーニングがへ

平穏を生む例だろう。

アダルト動画のタイトルはその人の趣味趣向、性衝動につながりうる好奇心の発露であって、それを選ぶところを不特定多数に見られては、およそ平穏ではいられない。

一般にアダルト動画と言えば、殆どが男性をターゲットにしたもので、殆どが女性を(もちろん竿役の男性も)個人としてより肉体としてだけ扱う場合が多い。記号の羅列だ。名前があってもそれも記号に過ぎない。

だからこそ需要が有るのだろうし、またそんな世界であってもわざわざ特定の女優に擬似恋愛する人もいる。

とまれ。そう言うもの選ぶことは自分の性的趣味をさらけ出すことだから、ゾーニングはそれを理解しない人々からその人を守る防壁の役割を担う。

でそういう所に、個人の意思に関係なく、否応なく入らなければならない、あるいはい続けなければならない人は、まあいないことが多い。(AV店で客とセックス始めるAVなんてのもあるけど、現実にそんなのが起きて、心穏やかでいられる人がどれくらいいるだろう。)

コンビニ店のゾーニングはその仲間だが、残念ながら壁らしい壁はない。アダルト雑誌を求める層は求めない層、嫌悪する層と物理的には共存を求められる。だから、コンビニのゾーニングに対しては、問題ありとの話が時々出てくるのだ。

 

この2者を比較すれば、ゾーニングの価値は実感できる。ではアダルト動画のようなゾーニングには罪はないのだろうか。

現実的な視点では罪がないとも言える。

だが、アダルトコーナーは、いわばかつて策で囲まれたエリアで女性の性を売り物にしていた岡場所の縮小版という側面があり、それを温存している点は罪といえるだろう。

もちろん複製可能な映像を媒介にしている点や、あくまで自慰行為の補助であるという点は大きく違う、が、相手を一人の人間としてではなく性衝動の解消の道具として使う行為とそれを金銭で売買する行為を、保護する壁として機能している側面。

また、「相手の価値観、趣味趣向が自分と大きく異なっても、それをお互い受け入れ、それを素直に表明しながら暮らしても差別されることのない世界」を目指すことを理想と考えた場合、その理想を阻害する障壁にもなる。

 

でも、繰り返すが現実的にはアダルト動画の販売におけるゾーニングは多くの場合その周辺にいる人を心穏やかにしてくれることが多い。人は理想だけ食って生きることは出来ないのだ。

だが、それは同時にだからといって理想などかなぐり捨てて良いという話でもない。

もやもやぞわぞわしながら、現実に対応しつつ理想を模索しつつ行くことが、生きるということなんだろと思う。

(この書き方だと、私が「自分の変態性をさらけ出しても差別されず生きられるようにすべきだ」ということを主張している変態のようにも読めるな。
でも「何人も差別されない世界」の究極の果てはそういう世界だろうとは思う。
そしてそれは多くの人間に取ってはあまりにも過酷で醜悪で無秩序で不愉快な世界だ。だからと言ってある価値観から否定されるべきものを一方的に断罪し否定し攻撃し駆逐することは「何人も差別されない世界」を理想とする方向性を否定することである。でも不快なものは不快だ、心地よいものが心地よいのと同じで。
その両者を併存させる現実的な手法としてゾーニングが存在している。そしてそれはあくまで暫定的なもの、否暫定的であるべきものではないか?と思う。)