正義が見えない世界での共存

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この事件に対し

日本人7人死亡確認 バングラデシュ人質事件 | NHKニュース

なんとも痛ましい事件。被害に遭われた方、亡くなられた方に心から哀悼の意を捧げると共に、自分たちの価値観を他者に強要する行為に対し怒りを感ずる。強要・排斥・分断は根本的には何も解決しない。

2016/07/03 08:04

ブコメしたのだけど補足。

テロを起こす人々や応援する人々の根底にあるのは「自分たちを否定・排斥・分断する世界との対決」ということだろうと思う。
だがそれによって被害をうけるのはそうした否定・排斥・分断を行っている人々ではなく、むしろその一端を担わされているだけの人や境界線付近にいる人たち、自らも否定・排斥・分団されている人たちである方が多い様に思う。(今回の場合まさにそうだったのではないだろうか)
彼らは彼らがやられたやり方でやり返した結果、自らの価値観を周りに受け入れさせられる可能性も摘んでいっている。
そのことに同情する気は全く無い。
だが少なくとも、テロによってでは彼らの問題は全く解決しないし、それと対抗する側がそれにカウンターを食らわすことも同様だと私は思う。

他者の価値観を許容できない心の問題

価値観の強要に対し価値観の強要で返しても意味はない。
価値観はその人の来し方の中で醸成されたもので、それを否定し新しい価値観を強要することは「死んで生き返れ」と強要しているのと同じだ。
もちろん、テロを起こした連中に対しは、厳格に法的処罰は加えるべきだと思う。テロ行為自体を許容すべきとは思わない。テロ行為は価値観を殺す代わりに物理的にを殺すわけだ。
物理的に殺すことと精神的に殺すことはどっちがマシか?どっちもマシではない。
テロはテロを、ヘイトはヘイトを生む。ヘイトやカウンターテロを行っても問題をより悪化させるだけで解決から遠ざけるだけだ。その先に解決はない。

根本の問題は、彼我の「他者の価値観を許容出来ない心」だ。
これをお互いに解決できないかぎり、武力を用いようと言説を用いようと根本的には解決はしない。

もちろん、一方的に許容すべきという話ではないが、少なくともどちらか、できれば両方に許容しようとする姿勢がなければ、何年何千年経っても解決の糸口すらつかめないだろうと思う。
そして本当に大事なのはその糸口を掴んでからの双方の歩み寄りの過程なのだ。
許容すれば、間すっ飛ばして平和になるなんてことはない。
そしてもちろん、糸口すら掴もうとしないなら解決なんて有り得ない。

憲法九条は魔法の呪文じゃない

ところで、ブコメを見ていたら「こうした事態を憲法九条で防げるのか」という言説があった。

この論者の考えは、おそらく「“憲法九条を維持すればこうした事態を防げる”と考える人があるようだが、そんなことはない。」ということを言いたいのだろうと思う。
それはその通りだと思う。
だって九条は根本解決のためのものではなく、上に書いた「許容しようとする姿勢」のたぐいだからだ。

憲法九条はざっくり言えば「日本国は国際紛争を解決する手段として戦争・威嚇・武力行使を放棄する」という憲法だ。
上の話で言えば「日本国は武力による価値観の強要はしません」宣言であり、それは根本解決の前段階でしかない。

武力以外の方法で価値観の強要を行っているならそれへの反発は避けられない。
根本の価値観の強要を改め、相手にも相手側の価値観の強要があることを認めさせ、お互いにお互いの価値観を許容するための方法を模索する…という行為がなければ、こうした事態を根本的に解決できないのは当たり前だ。

だが、では逆に「憲法九条を改正して戦争・威嚇・武力行使もOK」にしたら、こうした事態は防げたのだろうか?
戦争を国際紛争解決の手段にしている代表と言ったらアメリカだけど、アメリカ人のテロによる被害者が、解決手段にしてない日本より少ないという話は寡聞にして聞かない。
また、武力や恐怖によって相手に価値観を強要する今回のテロ、こうしたテロを行うことで、ISが他国から攻撃を受けることは減っただろうか?
(「お前みたいな腰抜けが許容とか言い出すから減るんだろうが!」と言われそうだ。まあそうだね。私個人だけの話なら家に隠れてガタガタ震えてるだけだろう。)
でも現実には彼らに平和な時は来ていない。彼らが自分たちの正義で他人の正義を踏みにじることを辞めない限り(もしくはどちらかが滅びるまで)、戦いは永遠に続くだろう。

まるで修羅界だ。
私は、極楽はまあ無理だけどせめて人間界に暮らしたい。

とまれ。

憲法九条は魔法の呪文ではない。
みんなで唱えれば平和が来るとかそういうお題目じゃない。
どっちかと言えば、ガンジーの「非暴力不服従」のスローガンみたいなもんで、人々をわかりやすい正義から遠ざけ、茨の道の中のより深く広大で有機的な調和の探求をさせるようなたぐいのものだと思う。
でも、だからこそ価値があるのだと思うのだ。

価値観の対立はわかりやすい。
そこにはわかりやすい正義がある。わかりやすい正義は、わかりやすい敵、わかりやすい強者と弱者を作る。
でも、その世界では根本的に戦いも差別も無くならない。

戦いや差別を減らすには、強者や弱者を減らし、敵を減らすことが必要で、そのためにはそれらの根源となる正義そのものを限定することが必要なのだ。

憲法九条の意味とは、いわば正義を限定するということであり、それだけで戦いや差別は無くならないが、無くしていこうとするその第一歩として価値がある条文なのだと思う。

蛇足:わかりやすい正義より正義が見えない世界での共存

だが、だからこそ、本当はわかりにくいことを当然のものにしようとして来たからこそ、戦後うん十年経って未だに、それを無かったことにしてわかりやすい正義のもとでやり直そうと考える人々が出てくるのかもしれない。

わかりにくく、本来は過酷で、国民の理解と努力無くしては維持できない概念。
それを、表向きはあやふやな腰砕けに見える対応でもってこの国の当たり前として維持しようとした人々。
それを見て育った人々が、わかりやすい正義に憧れ、憲法九条に代表されるような、わかりにくいもやっとした正義、戦いや差別が見えにくい世界と決別しようとするのも、ある意味当然なのかも知れない。その方が楽しいし気持ちいいだろうしなにより美しいだろうから。

でも私は、わかりやすい正義で戦い続ける世界より、正義が見えにくい世界で少しでもみんなが快適に暮らせる状況を模索しながら共存する方が良いと思う。私を始め、そっちじゃないと生きていけない人は世界中にたくさんいると思うから。