“100%快適ではないけど比較的快適な状態”のための寛容・不寛容

bylines.news.yahoo.co.jp

この記事に、

ヒロト、若林、クドカン、森達也……それぞれが考える「不寛容社会」における“正義”(てれびのスキマ) - 個人 - Yahoo!ニュース

良記事。この手の話はつい極端なパターン(絶対の寛容や絶対の不寛容)を考えがちだし、その方が伝搬・共有もされやすく快感にも繋がりやすいけど、みんなで暮らしていく上で丁度いい所でバランス取ろうよって話。

2016/06/23 16:04

ブコメしたのだが追記。

他の方のブコメにあった「寛容を突き詰めると他人の不寛容を受入れなければならない」問題。
これを解決する手段があるとしたら、それこそバランスを取るということなのだけど、じゃあバランスをとるというのはどういうことなのか。

寛容が不寛容を生む

寛容であろうとする人にとって不寛容を受け入れることは、自分の「寛容であろうとする」想いを自ら裏切ることであり、それは気持ちが悪い嫌なことだろうと思う。
でも、だからと言って「寛容であろう」という想いにこだわり続けることって、ある意味不寛容ではないだろうか?

寛容であろうと考える人の中には「寛容」と「不寛容」がある。
では、その人がいない時、対象の人物は「寛容」だったり「不寛容」だったりするのだろうか?
もちろんあったのかもしれない。
だが、寛容であろうと考えるその人自身がそこにいない、対象の人物のことを知らない状態なら、少なくともその人の中に、対象の人物についての評価として「寛容」も「不寛容」も存在しない。
「寛容であろう」と考えることは他者や自身の「不寛容」を前提にしている。
その人が、対象の人物を知りその言動を見て状況を見て「寛容」「不寛容」を感じたその瞬間に、その人によって「寛容」「不寛容」が生まれたのだ。

こと一個人の意識上の話だけを考えるなら、「寛容」が「不寛容」を、「不寛容」が「寛容」を生むといって良い。

「寛容であろう」とすることは「自分が不寛容である事を寛容したくない」ということだ。

絶対の寛容も絶対の不寛容も人間には出来ない

「寛容であろう」と考えることは、他者が、自分や第三者に対して不寛容であることを受け入れることにつながる。
これを突き詰めていけば、結局他者の不寛容を留める手立てが無くなり、結果的に世界に不寛容が満ちる。
これは「寛容であろう」とする考え方の敗北。
「寛容を突き詰めると他人の不寛容を受入れなければならない」問題だ。

この問題が問題でなくなる方法は、「寛容であろう」と考えることを“突き詰めない”ことだと思う。
絶対の寛容、絶対の不寛容を考えることで矛盾が起きるなら、考えなければいい。
と言うより、絶対の寛容とか絶対の不寛容なんて、人間に出来るはずがない。
出来もしないことをあえて考えて「ほらおかしい!」とか言ってるのは衒学趣味というものだ。(それはそれで楽しいのだが)
「出来るだけ寛容であろうとする」ことは「絶対寛容であらねばならない」とは大きく違う。

「出来るだけ」ということは、「出来ない時は自分が不寛容になることを認める」ということだが、これは同時に「出来る時は自分が寛容になることを認める」ということだ。大枠で「寛容であろう」とすることから外れてはいない。

これはつまり、「寛容だったり不寛容だったり、その場の状況でふらふら変わってしまう自分に対して寛容になろうよ。」ということだ。
これは他者に対しても拡張可能だ。
「他者が世界が寛容だったり不寛容だったり、その場の状況でふらふら変わってしまうことに対し寛容になろうよ。」ということだが、「自分が寛容だったり不寛容だったりすることを認める」のだから、それに対し、そんな状況に対し、寛容にも不寛容にもなれるということだ。

そんないい加減なことでいいのか?

みんなが少しずつ不満を抱えてるけど比較的幸せなバランス

いい加減であることは、特に真面目な人にとっては耐え難いことだ。

だが、まて、寛容であろうとする、その大本の理由はなんだったろうか。
それは自分を含めた人々が、少しでも明るく楽しく健やかに生活できることを目指すためであるはずだ。
明るく楽しく健やかに暮らしていく上で、寛容である方が良いと思うから寛容であろうとしているはずで、寛容であることを突き詰めた結果、結果的に明るく楽しく健やかに暮らしにくくなるのであれば、それは目的と手段の取り違いというべきだ。

不寛容である方がよりみんなの明るく楽しく健やかな生活に貢献する場合もあるし、寛容である方が貢献する場合もある。
どちらもあるなら、どちらであることも寛容すべきだ。
上でバランスと書いたのはつまりそういうことだ。

だがそれは、気持ちが悪い、嫌なことだ。
「寛容であろう」とする人間が不寛容である自分を一部認めることも、自分の状態を「不寛容」であるとの指摘を受入れ「寛容であること」を目指すことも、どちらも「自分の状態を一部否定すること」であり、快感物質の分泌は起きにくい。
バランスを取るということは、その状態をも受け入れるということだ。
みんなが寛容であり不寛容であり、それぞれがその不満を持ちつつ、その完全に埋めることが出来ない心の隙間を受け入れながら、みんなで少しでも明るく楽しく健やかな状態を目指す…。

バランスを取ると言うと、とかく快適な状態を考えてしまうが、「100%快適な状態は無い」ということを受け入れることもバランスを取る上で重要なポイントなのだと思う。


蛇足 神仏の御業なら寛容でも不寛容でも

絶対の寛容も不寛容も人間には出来ない。
出来ないからこそそれを理想と考え、超常的な存在に仮託する。
阿弥陀様や観音様、キリストの語る神の愛。
もし人間が人間のままで絶対の寛容を体現できるなら、そんな存在を作り出す必要はなかったのではないだろうか。

浄土宗系のお祈りの言葉「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様に帰依いたします」という意味合いだし、イスラム教の祈りの言葉「Inshallah」は「アラーの思し召し通りにいたします」と言う意味合いだけど、これは結局「諦める・受け入れる」ことを重要と考えていることを表してもいる。
偉大なる存在に仮託することで、寛容であったり不寛容であったり、ふらふらする自分を許容する、そういう仕組なんじゃないだろうか。