日常と戦闘と混乱と

「戦争反対」と言う時、人はどういった状態を「戦争」とまたそれに対する「平和」と位置付けるているのだろうか。
先日共産党の議員が感情的で脅迫まがいな署名活動をした記事があったけど、この人が想定した戦争とは?あるいは平和とは?

私の戦争のイメージは一義的にはやはり太平洋戦争、それも後半の“ガダルカナルインパールで硫黄島で沖縄で続く玉砕、本土への空襲、原爆、敗戦。”というもの。被害者目線だね。
やっぱり被害者の方がその悲劇性をイメージしやすいというのはある。だから、あの議員の行為はそういう意味では、同根の不安感をベースにした行動ということではよく分かる。
よく分かるからこそ、それはあくまでイメージであることを何故深く考えなかったのかと残念に思う。
だって、それは戦争という現象のほんの一部であり、政治家(特に戦争反対を意図した政治家なら)が持つべき戦争の理解としてはあまりにお粗末だったと思うからだ。

日常と戦闘と混乱

上で私がイメージするとした「戦争」は戦争の一部である。では他にどんな状況があるのか?

戦争状態にある場所の状況は大きく3つの状況に分ける事ができると思う。

  • 日常 戦争状態にない時と一緒の戦闘が無い状態。戦争協力義務等は発生しているが、戦争は遠くにある状態。
  • 戦闘 複数の集団が殺し合いをしている戦闘状態。ただ軍隊・集団は機能し戦闘を最適化するために行動している状態。
  • 混乱 集団が機能を失い、個々が個々の目的を最適化するために行動している状態。

もちろんこれは私が勝手に思いついた区分けで、多分専門家ならもっと適切な区分けをしているだろう。
が、ともかく、こうした3つの場面の分けて考えると、上述の戦争のイメージは混乱、もしくは戦闘と混乱の間位の位置にある状態をイメージしていると言えるように思う。

これは太平洋戦争に限らず、古今東西の戦争をイメージする際、私個人としては「戦争」と聞くとついそういった状態をイメージしてしまう。
が、それは大きな部分ではあるが一部にすぎない。
戦争状態と言われる場所にも日常の状態は存在する。なのに批判する時(あるいは賞賛する時)は混乱や戦闘状態を素材としてしまいがちになるのはなぜか?

それは混乱や戦闘などの状態を語るほうが、語りやすいからではないだろうか。

混乱や戦闘は義を理を愛を引き立てる

何故語りやすいのか?
混乱している状態とは、正義も合理も愛も存在しない状態だ。
敵も味方も自分の生命や都合のために他の生命を軽んじる世界。だからこそ正義や合理や愛が引き立つ。

混乱し、絶望的な突撃を告げる司令部、それに反し合理的な作戦を取る司令官。
混乱し、国を危うくするような集団の行動にのめり込む人々の中で敢えて自分の正義を語る英雄。
混乱し、皆が殺しあう中で偶々見つけた生命を助ける兵士。

とてもドラマチックだ。
そして通例、同じ場面を語る時、ドラマチックな場面とそうでない場面なら前者の方が見聞きした人々の心を動かす、動かしやすい。
そうした経験が積もれば、無意識に反射的に、そうしたドラマちっくな場面を中心に…つまり混乱や戦闘状態を中心に戦争を語る人々が増えても不思議ではないと思う。

そういう人々がお互いに話が全く通じないのは、お互いが自分に都合のいいドラマちっくな混乱や戦闘をのみ「戦争」として考えているからなのだろう。

でもそれは戦争の一部だ。
問題はむしろ戦争の日常にこそ大きく存在しているのではないだろうか。

日常の問題

では戦争の日常とは何か。
何か…と言っておいて語れるほどの経験はない。
少なくとも私は、戦争下の日常を経験したことは無い。

だが例えば、第一次世界大戦当時、喜劇王チャップリンはアメリカ国民に戦争公債を買って自由主義を守ろうと語った。「独裁者」のイメージでは戦争そのものを批判しているようなイメージのチャップリンだが第一次世界大戦当時はアメリカが戦争に行く手伝いを積極的にしていたわけだ。
あるいは坂口安吾の作品など見ると、戦争下にも平和な日常があったことが読み取れる。
平和…と言うか戦闘が無い混乱が無い状態があったのだ。
そこでは、戦争協力のために様々なことが暗黙の内に要求される。
その積み重ねの先に戦闘や混乱状態がある。
そしてその状態の方が(戦場に行かない人々の)大多数にとってはリアルなのだ。

だが、今、戦後かつある程度の年齢の世代まで、戦争の日常を詳細に知りイメージし、他人に語れる人がいない。
右翼も左翼も、戦争礼賛も戦争反対も、極端に走る者は分かりやすい混乱や戦闘のみを使って持論を語る。
だが、それではダメなのだ。

語るならば、大多数にとってリアルとなる言葉を探すべきなのだ。
それは、戦闘や混乱状態ではなく、戦争の日常にこそあるのだろうと思う。

蛇足

戦争を舞台にした物語が人気を博すのも、戦闘や混乱状態を舞台にすれば正義や主人公の合理性や愛情が表現しやすいからなのではないだろうかという気もする。

対比が出しにくい状態で必死に言葉を探すような作品に付き合おうとする人は元々少ないのだろうなあ…とも思う。

さらに蛇足

戦争の日常は、戦争に関するビジネスが活発になりしかも被害を受けにくい状態だ。戦争を主導する人々はこの状態にあって、この状態をキープしようと考える。

戦争の戦闘状態になると、被害は出て来るが、まだ集団は機能しているので、こういう地位や名誉や金のある人は危機を逃れやすく、戦争の日常に戻ることが出来やすい。「事件は会議室で起きてるんじゃない!」と叫びたくなる場面だ。

戦争の混乱状態になると、被害が出るだけでなく地位や名誉や金があっても機能しなくなる。戦争でビジネスする人が一番嫌うのはこの状態だ。だが、だからこそ人々の一部はこの状況に夢を描く。混乱時は現場しか無い。「事件は会議室で起きてるんじゃない!」みたいな言葉を吐く必要もない。現場で一番そこを動かせればいいのだ。クライマックス。

そして日常。
生命は、生病老死を楽しむためにこの世に生まれてくるといったお坊さんがいるが、全く人の業は計り知れない。