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供養の酒は美味しく飲める人が飲め



文中にあるような無理やり酒を勧める行為が許容されてるのは、正直嫌だなあと思う。
私は酒好きなのだが、酒は美味しくが大事だと思うので、美味しいと思えない飲み方や、もともと飲まない、飲めない人に無理やり勧めるのは、その人にも、酒に対しても、酒を作る人たちに対しても失礼だと思う。

が、それ以上に気になるのは、文中にある場面、葬儀における供養として酒を飲むことを強要することが許容されてることは、本来の供養の位置づけから言ったら間違っていることだ。

供養とはなにか?

供え養うこと、誰を?

一番有名なのは施餓鬼供養か。これは字の通り餓鬼に施すことで供養する。
餓鬼とは飢える地獄にいる者。
彼らを養うことが何故必要なのか?

ここで気をつけなければならないのは、よく「善行を積む」「良い事をする」ことが目的と言われがちだがそれは間違えだということだ。

「善行を積み成仏したい/させたい」は欲望だ。そのはてに成仏できるとしたら、矛盾してないだろうか。
これは修行なのだ。
いわゆる布施行だ。
布施行とは「欲しいを与えることで欲望を離れる」修行だ。
そして、これを受ける側も「与えたいを受け止めることで我を離れる」修行を行う。
与えるものは与えたことによる恩を忘れ受け流し、頂く側も過度にそのことに囚われず粛々と頂くことを目指す。
感謝は大事だが、感謝されることを目指して行われる時それは布施行ではない。

だが、死者は修行できない。
だから、生者が代わりに修行を行い、その成果を死者のものに振り替えるのだ。
これを回向という。

葬儀の場で飲んだり食べたりが「供養だから」と言われるのは、そうした「与え受け取る布施行」を回向することで死者の魂が成仏しやすくなると考えられているからだ。

だが、だからと言って強要するのはどうだろうか?

先程も書いた通り、大事なのは「与え、受け取る」ことだが、ではどんなものを与え、受け取るのが正しいのだろうか?

それが与える者にとって、あるいは受け取る者にとって、価値あるものの場合だ。
何故ならこれは布施行であり与えること受け取ることを通して、欲望を受け流す力を身につけることをめざすからだ。

しかるに、酒が飲めない、飲みたくない人に酒を強要することはどうか?
これは、勧める側が、「死者の供養には飲んだり食べたりすべき」という自分の中の価値観に囚われていることだ。布施行になってない。
供養のためというならば、その人が最も望むことを与えようと努力すべきだ。

で、件の記事に出てくる酒飲みは二人共自分の価値観にとらわれている。これは供養ではない。
供養でないなら、益々以って人に強要することが許容されえる根拠はない。

酒はやはり、美味しく飲める人が美味しく飲むべきだと思う。
食べるのが好きな人に食べてもらうのもよし、静かに過ごすのが好きな人なら静かに過ごす時間を与えるのもまた供養だろう。