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世界の終わりの終わりと変化

toianna.hatenablog.com

この記事に

もしかして少子化問題って10年後には解決してるんじゃないの?非婚が進む30代と早婚志向な20代の溝 - トイアンナのぐだぐだ

面白い論考。そうあって欲しいとも思う。/今の40代には「20代の頃には世界が終わる」と漠然と感じてて、実際には世界は終わらず目測を誤った人が結構いる。そういう人にとって結婚は無駄な事の象徴だった。

2016/05/19 10:03

ブコメしたのだけど補足。
今日こそ短く書くぞ…。(追記:ダメでした)

子供の頃は世界の終わりがもっと身近だった

40代全員とは言わないけど、私の周りには結構いたし私自身そうだった。
10代後半から20代にかけて「自分探し」なんていうキーワードが流行った世代だが、その裏にあったものの一つにこの「20代には世界が終わる」という終末意識があったように思う。

その根拠の一つがノストラダムスの大予言だったりするのだけど、現実に、核兵器開発による冷戦だったり、オイルショックだったり、人口爆発だったり(少子化じゃない)、小学生の頃は(1970~80年台か)なんというか、そんなテーマのテレビ番組がお茶の間を賑わし、小学生向けの雑誌等にもそうした特集が平気で組まれたりしていた。
(最近はどうだろうか?少なくとも「温暖化がこのまま進めば地球は砂漠に!人類はメツボーする!」みたいな大げさな話をサラッと科学特集みたいな所に書く本は、大人向けにはともかく、子供向けでは少なくなった印象なんだけど。)

その行き詰り感がベースにあったからなんだかんだとノストラダムスの大予言なんかが取り沙汰されたし、それらとかいろんな宗教の終末思想な部分を材料にした新興宗教団体がテロ騒ぎを起こした時にも、バカバカしいと思いつつ、なんとなく感覚的にはそういう行動に出る気持ちに対して納得してしまったりした。
北斗の拳』は今では「ディストピアを舞台にした超格闘漫画」的な扱いだと思うけど、当時は微妙に地続きに感じていた。世界の終わりはもっと身近だった。
エヴァンゲリオン』が放映された当時、社会現象と言われるまで人気を博した理由の一つにも、そうした終末感覚を持つ人が視聴者に多かったからじゃないかと私は思っている。

そういう終末意識が根底にあると、結婚して家庭を守るとか社会に参加するとかが意味のある行動に思えなくなる。
それならばむしろ、自分とは何かを突き詰め、自分の思いにより忠実に生きようとする方がよっぽど価値があるのではないか?と思ったり。
ちょうど死期を告げられたがん患者が悔いのない人生を送ろうと考えるようなレベルで、20代の日々を終末期の日々と無意識に捉えていた。
少なくとも私はそういう感覚があったし、そうした感覚を共有している人もまわりに結構いた。

でも世界の終わりはこなかった

で、実際には終末時期を超え、新しい世紀が始まり、世界は続いていた。
私は(そして同じような感覚を持っていた人たちは)そこで進むべき道を見失った。
その後結婚もしたし就職もして今に至るが、未だに「でもすぐ先に終りがある」と言う感覚は残っている。まあ実際40代ともなると同世代でがんで死亡なんて話もよく聞くようになってくるから、その感覚はあながち間違いではない。
で、あながち間違いでない年代になってきてなんとなくホッとしている自分がいるのだ。
一言で言えば「ようやく本当の終わりが近づいた」という感覚。

閑話休題

そんなわけで、こういう「終わりはすぐそこ」と言う感覚は40代だけの話ではなく30代中盤くらいまでは共有する人がいる様に思う。(そこから下は感覚が違う。境目は1990年代中盤位かな…)

戦後の常識的世界は終わったんじゃないか?

この感覚、たぶん高度経済成長期に構築された「戦後の常識的世界の終わり」という感覚であったのかもと考えている。
例えば「結婚して男は出来れば公務員、銀行員、エリートサラリーマンとして稼いで出世してボーナスもらって、女は家庭に入って家事・子育てして、マイカー持って、マイホーム持って、引退後は年金もらって悠々自適。」みたいなモデルケース。
今となっては噴飯物だけど、私が10代の頃、周囲の大人はこういうモデルケースが幸せの姿だと語っていたし、それは私にも刷り込まれていた。
当時の「世界の終わり」とは「そうしたモデルケースが破壊された世界」だった。
「破壊したい」と思っていたのか「破壊されたい」と思っていたのか「破壊されるべき」と思っていたのかその差はもう覚えていない。
でも、「確固とした幸せのかたち」は暗黙に存在しそれによる圧力もあった。
そこからの開放、自由。
80~90年代の曲に「自分らしく」とか「自由」とかがよく語られていたのは、束縛する何かがあったからだが、それの一つがこの「確固とした幸せのかたち」だった。
「世界の終わり」とはこの「確固とした幸せのかたち」の否定であり、「終わりはすぐそこ」と言う感覚はそれへの期待・不安の現れだったのだろう。

世界の終わりの終わりと変化

そして現代。
ディストピアの描き方にも変化が現れている様に思う。

最近のディストピアは、世界の範囲が区切られている場合が多い。
その先に、今の世界があり、主人公たちだけがそこに行けると言う描き方。
あるいは特定のルールで動いている狭い世界を設定して、世界が変わるとルールも変わるという描き方。
これは、「束縛するものは存在するけど、それは個々のものであり、そこからの開放も破滅も個々のものである」という感覚の現れなのではないだろうか。
「世界の終わりがすぐそこにある」時代が終わって「世界の終わりは個々の中にある」時代が来てるのだろう。

それをつい「狭い世界に閉じこもっている」と捉えてしまい勝ちになるのは古い世代だからなんだろうな。私もつい主語を大きくしてしまいがち。
明治期に、天下国家を語る話に対し個人の話を描くものを「小説」と蔑んだという話を思い出す。
だがその後の小説はどうだったか?小説が新しい表現世界を掘り起こしたといえるのではないか。
今のディストピアの描かれ方も、これまたより深く、細かく掘り下げていくための試行錯誤の流れなのかもしれない。
そう考えれば、これはむしろ希望だ。新しい創作世界が広がっていくための。


件の記事のブコメで、20代と30代の結婚観の変化を希望としてみている(そして自分たちの世代が捨て石になることを粛々と受け入れている)コメントが多いのも、そこに希望を感じる人が多かったからだろう。
少子化は感覚だけの話ではない。社会的な法制度やインフラや政策やその他色々が解決に向けて必要になる。でも、感覚は大事だ。
世界は破滅すると感じている人間にとって世界を存続させることは至難の業だ。
それを軽々とやってのける世代が現れているのだとしたら、希望を感じるのは当然ではないだろうか。