偏りの許容は民主主義には必須

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TBS「民主主義に重大な挑戦」 スポンサー圧力示唆に - 共同通信 47NEWS

「…の会」は安保法制擁護記事しか書かなかった側に対する批判はしてない。判断に偏りがある人々の語る公平は偏りだ。/一つ一つが偏ってても全体としてバランスが取れることこそ必要なのでは?

2016/04/07 11:40

ブコメしたのだけど、補足。

各メディアに、ある基準に基づく中立・公正を求めることは、結果的にその基準を元にした全体主義と一緒なのではないかと思うのだ。

だから、放送法を盾に政府が放送局に「中立・公正」を求める行為は間違っていると私は考える。
それを推進していけば、政府が語る中立・公正の正しさを批判できるメディアが無くなるからだ。

この考え方の欠点は、偏ったメディアの存在を許容することになる点。

個人的な感情として、全体主義的な思想を主張する様なメディアは無くなって欲しいと正直思う。
でも、こと国の仕組みとしては、そうしたメディアでも存在できる状況は維持される必要があるのだろうと考える。
例えば、全体主義的思想を「公正」であると考える人から見たら、本来の民主主義的な思想は偏った考え方に見えるわけだ。もし国の仕組みが「偏ったメディアの存在を認めない」仕組みであった場合、時の政府が全体主義に偏った時にそれを批判できるメディアが存在できなくなるからだ。

だから民主主義を進めるためには、(ヘイトスピーチを行う連中のように他者へ暴言を吐いて攻撃したり、自分たちの持つ力によって相手に圧力をかけたりすることは許されないが)仕組みとしては「偏りの許容」が必要なのだと思う。


で、現状。

「…の会」の主張に対し感じるのは「安保法制批判だけを行ったメディア」を「偏ったメディア」というのなら、同じ剣で「安保法制擁護だけを行ったメディア」も切るべきで、そうでなければ彼らが語る中立や公正はすでにして偏ってると言わざるをえないから、彼らの主張に従いメディアへの圧力をかけることは、それこそメディアに対し「放送法違反」を要求することに他ならないと思う。


まあ一方で、各メディアが様々な場面で、政府やスポンサーを批判することを避け、礼賛すらするような場合が多々あるわけで、それに対する批判は行うべきだと思う。
でも彼らのように「自分の正しいと思わない記事を出すから圧力をかける」ってのは愚の骨頂だ。

民主主義の根幹は構成員の多く(できれば全員)が妥当と思える方法を模索することにある。

ある構成員が偏っていても他の(それまたある視点では偏った)人々と論議を行うことで、理想の「みんなが妥当と思える最良の結論」にたどり着けるなら、それはありなのだろう。
感情的にはとても納得はできないが、納得出来ないからと圧力をかけるなら「…の会」と一緒だ。

力(暴力・権力・財力・情報発信力・人間関係などなど)によって他人を従わせるのは民主主義ではない。