混ぜるな危険な液体は単体でも劇薬だ

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/touch/20160319/1458405157

面白い記事だった。
なので、蛇足。

歴史的に見ると、王や神官などの統治の倫理に基づく職業の方が、商人などの市場の倫理に基づく職業より、早く登場する。
そのためか、古今東西を問わず、市場の倫理に基づく職業は「賤業」と見られた過去を持つ場合が多く、最初にその職に付くのはややアウトサイダー的な人々だったりする場合もまた多い。

中国での商人の始まりは「商の人」、つまり商という国の人々だったと言われる(諸説ある)。
商は黄河一帯を統一する中国歴代王朝の中でも最古に近い王朝で、別名殷王朝と呼ばれる。
この王朝は、その末代「酒池肉林」の熟語の基になった紂王の代に、周によって滅ぼされ取って代わられた。
王朝滅亡後、商の人々は土地を失い各地を転々としながら物を売る仕事を始めたのがいわゆる「商人」始まりなんだとか。
いわば亡国の民の日々の糧だったわけだ。

西洋で似たような境遇の存在にユダヤ民族がある。
もともとイスラエルに住んでいた民族がエジプトに支配され奴隷とされ、のち戻ったらすでにそこには別の民族が住んでいて、国を失い後、亡国の民としてあちこちの国で独自の存在として生活する中で、商人を職業とするものが増え、中世の頃には「商人=ユダヤ人」のイメージが定着している。

国を失うことはいわば自分たちの統治の倫理の根拠を失うのに等しい。
だが一方で、ユダヤ人の「ユダヤ教」の様に「自分たちのは独自の統治の倫理がある」という誇りは捨て切れない…という真空状態が発生し、「他の統治の倫理に従わず、市場の倫理に従う」ことを選択することになり、それが他の統治の倫理に従う人々からは薄気味悪いまつろわぬ民=賤民として見る原因にもなったではないだろうか。
賤業視が先か賤民視が先か。
ともあれ賤業とされていた商業と賤民とされた亡国の民との関係は、相互に作用しながら近現代まで続いている。
ナチス・ドイツが呪われた民族としてユダヤ人を撲滅しようとした動きは、元記事で言う「市場の倫理」に対する「統治の倫理」の攻撃だったと見ることもできるかもしれない。


日本において商業が活発になるのは室町時代前後のようだ。それまでも商人は存在したがあまり表に出て来ない。
商人の原型的なものが悪辣な存在として描かれているパターンはある。「安寿と厨子王」に出てくる山椒大夫だ。
彼は「人買い」であり、それによって一財産を築いた存在として描かれている。
人買いがいるということは、当時すでに人を売る家族も人を買う人もいたということで、商売が成り立っていたということだ。
「安寿と厨子王」は仏教説話であり、安寿の自己犠牲や、山椒大夫が最後に鋸引きの刑に遇うことなどを通して因果応報を描いている。時代は判然としないが中世以降で、仏教が一般化した以降の話だから、語られていたのはやはり鎌倉期・室町期位だったのではないだろうか。
これなども宗教思想という「統治の倫理」による「市場の倫理」への攻撃と見ることが出来る。


西洋において商業への賤業視が薄れるのは宗教改革以降と言われる。
プロテスタントでは人間がその職業に誠心誠意従事することは神のみ心に沿うものだと主張した。
これは一見すると「市場の倫理」を肯定したことのように見える。
しかし、プロテスタンティズムの発端となったのは、カトリック教会が「これを買えばあなたの罪は帳消しになる」と免罪符を売っていたことに対する抗議(プロテスト)から始まっているので、実はこれは「市場の倫理が混淆したため腐敗した統治の倫理に対し、市場の倫理を部分的に取り込んだ新しい統治の倫理をぶつけた」形だったと見ることも出来るだろう。
だが、プロテスタントが定着するまでにはまだ多くの時間が必要で、基本的にはカトリックから差別されることも多かった。そんな彼らの行き場所となったのが「新大陸」で、プロテスタントが比率的に多い原因はここにある。


アメリカにおいて統治の倫理と市場の倫理の代理戦争の様相を呈したのが「南北戦争」だ。
アメリカの北部と南部の戦争だったのだが、大雑把に言えば、北部はプロテスト・商業中心・奴隷解放と市場の倫理が中心、南部はカトリック・農業中心・奴隷制維持と統治の倫理が中心だった。
結果的に北部が勝ち、一応市場の倫理を国是とする方向になったわけだが、御存知の通りこの戦いは今もなおアメリカ人の根っこに影響を与えている。大統領選挙などはまさにそれだろう。


つらつらと、うろ覚えな歴史知識で書いてみたが、こうしてみると確かに統治の倫理と市場の倫理の対立と言うのは歴史の色んな場面で出ている様に思える。

ただ、これは言うほど明確な違いではないのかも…とも思うのだ。
現実には、統治の倫理をかざしていると見える派閥が有る場面では市場の倫理と思われることを大事にしたり、逆もまたある。
また、ナチス・ドイツの民族粛清やポルポトの恐怖政治は統治の倫理の暴走だと思うし、市場原理の名の下に社会保障を切り捨てる最近の傾向などは市場の倫理の暴走だと思う。

どちらの倫理もそれぞれに掲げられる要素も「正義であり正しい」。
「正しい」ということは批判されにくいということで、それは同時に、容易に暴走しやすいということだ。
元記事では混淆することの危険を語っていたが、私としてはそれと同時に純粋であることの危険も語るべきだと思うのだ。
「混ぜるな危険」な液体は純粋な状態なら一層劇薬だ。
適宜薄める必要がある。

それが危険であることを認識することは大事だが、より大事なのはそれをどう安全に使うかではないだろうか。


と言っても、倫理はいわば「正しい正しくないの基準」で、それを使い分けると言うことは朝令暮改もOKと言う話だ。
それでいいのか?と言われたら頭を抱えてしまう。一つのルールを盲信する方が楽なのだ。
一人の心の中でならそれもありだろうけど、大勢の人が絡む場面でのルール改変は、その都度一人一人の心にストレスを増やす。
結局ある程度妥協できる考え方の集団に分かれてぶつかり合う形が、現状では妥当と言わざるをえないのかもしれない。

激変に柔軟に対応できるストレス耐性が一人一人にあったら…。(私には無い)