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「合理的」である事の危険

給食:ソバの実8粒混入で4500食廃棄 愛媛 - 毎日新聞

普通に考えるならアレルギーの無い子にはこれを提供し有る子には別なものを提供する、で良いはずだが、子供の安全をテーマにした事なかれ主義の力学の中では廃棄が一番合理的になる。合理は理が変われば果も変わる。

2016/02/21 08:37

このブコメの最後に書いた事の補足。
件の記事の学校の対応をフォローするつもりはなく、一般論として。

「合理は理が変われば果も変わる」とは、まあそのままの事なのだけど、「合理」とは「理に合ってる」ことであるから大本の「理」が変われば、合理性追求の方向性も結果も変わるのは当然だ。

たとえば先日テレビで、、ナチスユダヤ人虐殺に乗り出す前に障害者の虐殺を行っていたことを紹介していた。
そこに従事していた人々は狂気に囚われていたのだと考えてしまい勝ちだが、そうではなく、あれはまさしく合理性追求の果てに行われたことなのだろうと思うのだ。

合理性はそれ単体で正義だったり、すばらしかったりする物ではなく、あくまで道具で、正義や平和や幸福やそう言った物を求めて組まれた理が根底にあって初めて、正義や平和や幸福やらに近づこうとする可能性が生まれてくるのだ。

科学しかり、法律しかり、宗教しかり。

ある企業ではクレーム対応から顧客満足度を上げ、売上げの向上を果たしたが、別なある企業はクレーム対応にいっさい金をかけずその分を利益に回して高い利益を生み出した。
この二つはそれぞれよって立つ理が違う。観測範囲も対象も、目的も時間スパンも価値観自体も違う。
それぞれがそれぞれの視点から合理性を追求した結果が、それぞれの行動の違いとして反映されている。

「いや根本的には○○の方が合理的」と言うのは容易いが、それはあくまでその発言主の視点・価値観から見る合理性であり、それが全く伝わらない時は、発言主の合理的な言葉は、批判する相手にとって全く非合理なことに見えている可能性も高い。

人はたぶんどこまでも非合理で居続けることはできない生き物なのだ。
どこかで理を求め、合理を求めてしまわずにいられないのだ。
非合理的に見えるその行動は、本人の中では徹底的に合理的に行動した結果である可能性の方が高いのだ。

それを修正するためには、相手の理を理解し、その文脈を受け入れつつ、その理そのものを変えていく必要があるのだ。

だが、その時その場で理は変わる、合理的な事もまた変わる。絶対不変的な理はない。
自分の感じる「合理的」を過信してはいけない。
それは、誰かの目には非合理の固まりに見えてるかもしれないのだから。