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自由の下には不自由が埋まっている

ジュンク堂の決断について - noiehoie on tumblr

この記事読んでブコメ覗くとこのブコメ

ジュンク堂の決断について - noiehoie on tumblr

言論の自由とは、畢竟、「政権批判の自由」なのだ”…カンストLvで残念な思考。クソ下手くそな比喩使っちゃう位に「相対」が苦手な界隈がやらかすのって、結局「絶対」化なんよね。「特定思想」の「絶対正義」化。

2015/10/24 19:48


なるほどなあと思った。
私自身は、

ジュンク堂の決断について - noiehoie on tumblr

面白い。憲法で規定されている「〇〇の自由」は憲法が拠って立つ国家の主権そのものからの自由の話である点は誤解されやすく、対個人対組織の自由の話と混同されやすいという問題。

2015/10/24 20:40

ブコメしたのだけど言いたかったのは、


憲法は国家のあり方を規定したものだが、それ自体が国家権力によってその効力を保証されている。

つまり、憲法が「なにを以って国家権力とするか」を規定する一方で、憲法自体がそこで規定された国家権力によって承認されているから効力を持つ…とされている。である以上、憲法に書かれているあらゆるものの効力は国家権力によって保証されうるものであって、それ以上でも以下でもあり得ない。

だから、憲法で語られる「表現の自由」や「宗教の自由」やその他あらゆる自由の適用される範囲は、国家権力によって保証される範囲に留まるから、憲法上で規定される「〇〇の自由」は、結局、国家権力からの、国家権力に対しての自由であると言える。

(余談だけど、これってC言語コンパイラC言語によって書かれているとか、OSの起動処理がOSそのものによって行われるみたいな話の様に思うのだけど、違うかな。余談終わり。)

しかし、これを語る時、得てしてこれを対個人、対組織にまで応用して語ってしまいがちである。
日本国憲法立憲主義・民主主義に基づいて書かれているが、個人対個人、個人対(国家的な物を除く)組織における自由に関しては規定をしていない。


本来自由とは、あらゆるものを相対的なものとして見る見方の上に成り立つ。
あるものが絶対的なものであると考えるなら、そこに拠って立つものの自由が他のものの自由より優先されることになるからだ。
だから、「自由であろう」とするなら憲法もまた相対的なものである、相対的なものならそれに従うも従わないも受けての自由だ…と考えることも出来る。


勘違いかも知れないが、(否確実に曲解だろうが)上に紹介したブコメを読んだ時、そうした視点が開けた様に感じた。つまり、

「〇〇の自由とは国家権力に対する自由だ」と断言することは、国家権力を絶対的なものをしてみていることが前提となるから、その時点で本来の「あらゆるものを相対的なものとして見る」という自由な状態ではなくなっている。

ということ。

大変面白い。まあ、これは私がブコメ主の考えを勝手に解釈しているだけなので、ブコメ主にしてみればいい迷惑だと思う。
すみません。


えーと。


あらゆるものは本来自由である、と言うのは真実だと思う。

そういう視点で言えば、「〇〇の自由は畢竟国家権力からの自由である」と限定して考えること自体が自由を自ら束縛することだというのはわかる。

が、残念ながら人間の肉の身はそれ自体が不自由なシロモノだ。

人間が創りだしたありとあらゆるものはその不自由さを引きずっている。

人間が集まって作られた国家を含めたあらゆる組織もまた、その人間の肉の身のもつ不自由さの上に構築されている。

その組織のルールもまた、その不自由さの上に成り立っている。

人間が、不自由な肉の身を持て生きる限り、本来の完全な自由の状態に居続けることは出来ない。

人が自由を語る時は、全て「私たちは不自由だ」という前提があり「だからこそより自由であろう」と願う心が現実の不自由さを克服し少しでも自由である状態を実現してきた。

不自由であるという諦念の上にしか自由であろうと言う思いは開花しない。
現実に存在する様々な不自由を抜きに自由を語っても、修行をせずに悟りを語るようなものだ。

憲法に語られる「〇〇の自由」を保証するために「国家権力の絶対性」を利用しなければならないというのは、全くもって不自由な話だ。
でも、これまでの人類の歴史を振り返れば、それを使わなければ国家権力からの自由を保証できない場合が多かったからこそ、この仕組みが生み出されてきたのだ。
本来なら、そんな自由、使うのも使わないのも自由なはずだ。
でも、それに影響を受ける人がいると考えて、行使しようとするものはそのことの不自由さを背負おうべきだというひともあり、そう考えること自体がすでに自由の束縛だというひともあり。

全くもって不自由だ。
だからこそ、それぞれがそれぞれの範囲で自由であろうとすることに価値がある。