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謝罪について

謝罪というのはとてもやっかいだ。

謝罪とは、自らの行為によって害を被った者に対し、その許しを請う行為だが、通常その前後に、「そこで発生した被害の原因や過程に自分が関与していると認める行為」と、「それを二度と繰り返さないことを誓う行為」などが一体となっている。

この中で、自分が本来努力できるのは、繰り返さないことを誓うところだけだ。
過去に起きた、起こしたことは、無かったことには出来ない。
いくら非難されても無理。時間は戻らない。

相手が自分の謝罪を受け入れてくれるかは、完全に相手次第だ。
簡単に許してくれるかもしれないし、永久に未来永劫許さないかもしれない。
どちらにせよ、相手次第なので、自分がここの部分で直接努力できることはない。
(間接的には、この場面以外の時間における相手との関係性を改善しようと努力することで、許しはしないが関係は改善した実質無効な状態に持って行こうと努力することは出来るだろう。
が、これにしたって相手の協力無しでは成り立たない。
関係性の質は主観だが、仕組みは双方向性のものだから。)

と、いうわけで、結局、謝罪の中で自分自身が積極的かつ前向きになれるのは、その失敗を繰り返さないことなのだ。が、だからと言ってアカラサマにそこに力を入れると、「心がこもってない!」と非難されることになる。


被害者側にしてみれば、過去が変えられないのは一緒だが、今後についていくら誓いを新たにされたところで自分が受けた被害は消えない。
上の三つで言うなら、許しを請う部分だけが唯一意味を持つのだ。
しかしながら、謝罪は相手の行為であり、自分が関与すべきものではない。どこに力を入れるかは相手次第であり、相手の力の入れ方を非難することは出来ても、具体的に謝り方を指示することは出来ないし、その意味もない。

つまり、謝罪をする=される関係には「互いに自分では直接どうすることも出来ない部分を相手は求めてる」という齟齬がある場合が多いような気がする。
世の中の民事裁判の多くは、この両者の齟齬から来てるのでは無かろうか?


これを解決するには、二つのアプローチが考えられる。

一つは加害者側に寄り添い、「被害者が望む謝罪を指定し実行させることで、謝罪が成立したとみなす。」こと。
もう一つは逆に被害者側に寄り添い、「再発防止や被害者との関係改善の努力を続けつつ、謝罪を繰り返す。」こと。

前者は謝罪を定量化する試みで、裁判所の仕事はこれ。学校のいじめの現場などでも多用されている。
公的な場面で使われやすいため、このアプローチを受け入れる方が「大人」であると見られやすい。

注意すべきは、このアプローチは被害者以外のメリットに対し、被害者の受けるメリットは大きく損なわれるという点だ。
被害者以外、とは、加害者に加え、二人を取り巻く社会の被害者に同情的でない全ての人たちだ。
何故か?
あるトラブルが解決せずにあるという状態は、周囲にとっても面倒だからだ。
しかも多くの場合、そのトラブルの解決から周囲が受けるメリットは当事者より少ない場合が多い。
だから、感情的なものは脇に置いて、定量化しパターン化した形で処理してしまった方が、メリットとなる。
加害者にしても、どうせ努力してもどうにもならない部分をじくじく責められるより、前向きに努力できる部分を考えたい。

そうして被害者だけが解決できない感情を抱えて、取り残される。


後者の場合はどうか。

この場合、加害者は罪を許されることのない状態の下で、一方的に努力し続けることを求められる。
日本社会の様に、無限責任がデフォルトの場合、被害者が許さない限り一生そこに縛り付けられることになる。

これは上に比べると、社会的に良くないことと見られやすい。
曰く「被害者も加害者も事件に囚われて動けなくなっている印象」を与える。
そして今の世の中では、動けなくなって前に進めなくなっていることは悪いこととされてるからだ。

だが、このアプローチは被害者自身が本当に相手を許す気持ちになるまで、事件の終結を待つというアプローチだ。
被害者の感情を考えるならこの方法を採るべきだろうし、この方向性を持たない案は、前者の亜流であると考えるべきだろう。

この方向性が採られ難い原因は、社会的に見て解決の効率が悪いからだ。
前者に比べ時間も手間もかかる。そのくせこのアプローチでメリットを得るのは被害者だけだ。


こうして、社会的には、主に前者をベースに謝罪という行為が行われ処理されていく。

だが、くどいようだが、本当に被害者に寄り添うアプローチは後者だ。
だから、目先の効率を重視しない、もしくは、重視すべきでない場面においては、後者のアプローチを採る事のメリットが現れてくる。
侵略国による被侵略国への謝罪などがそれだ。

なぜ、被侵略国への謝罪は効率を重視すべきではないか。
当事者の数、規模が大きく、個別事項も多くて一概に定量化できず、前者のアプローチで重要なあるべき謝罪の姿に対する考え方も様々で統一しても、神ならぬ身では必ず漏れが出てくる。
こうした状況に置いては、定量化することの方がむしろメリットが低くなる。
そこで後者のアプローチの出番だ。

上で私は後者のアプローチを加害者にメリットが無いと書いたが、実は一点だけメリットがある。メリットというのは違うかもしれないが「やれるだけのことをやる=やれないことはできない」という事実だ。

与えた被害が膨大で内容も非道い。
だが謝罪する側には限界がある。
前者はそれをあらかじめ織り込んだ上で、両者の落とし所を探る行為だ。
後者は謝罪の気持ちはその限界に阻まれないが、出来ることには限界がある。
残虐な殺人者だからと言って何回も死刑にすることは出来ないのと一緒だ。

被侵略国への補償は限界がある。
遣れる範囲で遣るしかない。そこは精一杯努力しよう。でも出来ないことは出来ないのだ。
前者のアプローチだって後者のアプローチだってそこは変わらない。
それでも後者のアプローチを採ることで「謝罪の気持ちは無限大」である事を相手に伝えることが出来る。

これはメリットではないか?


「口先だけの謝罪になんの意味があるのか」という意見もあるだろう。
だが、口から出ない謝意に気付けというのは傲慢だ。
再発防止や関係改善に努力するのが変わらないのであれば、謝意を明確にすることは、後者のアプローチ=被害者に寄り添おうとしていることの意思表示になる。
それを表現することには、表現しないよりも十二分に価値がある。

(売春と恋愛の違いみたいな気もしてきたが、置いておく。)


ただ、そうはわかっていても謝罪の言葉が出ない場合もある。
「周りから謝りなよ」と言われた場合だ。
この場合、他者の言葉の存在が謝罪の定量化につながったかのような形となるため、自分の意志で後者のアプローチを採ったとしても前者のアプローチを採ったかのような状態になる。
これにより、上述の後者のアプローチのメリットを減じるように感じるためだ。
強制された言葉は定量化された謝罪と一緒。

これはまあ、

「告白しちゃえよ!」「くっついちゃえよ!」と言われ、相手からも「私から言わなくちゃだめなんですか…?」とか言われた果てだとしてと、相手に「好きです。つきあって下さい!」と告白することは恋愛においては重要だと思う。

ので、

それが自分の謝意から出たものであるなら、表面上の状況が強制するもののように思われても(それは自分の主観であるから)、謝意は言葉にすべきだと思う。