それぞれのしあわせのかたち

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さとりとかゆとりとか - はてな匿名ダイアリー

この方の主張はおそらく、もっと未来に夢を持ってそれに向かって努力したり、積極的に社会に参加したり、もっともっと必死に生きようとすべきで、そうしないことが怖い、と言うことなのだと思う。

そうした考え方を否定する気はないし、私自身そうあるべきと思っていた時期もあるので、気持ちはわからないでもない。

ただ、私がこれと似た事を考えていた当時、私は「必死に精一杯生きることが“正しい生き方”だ」と考えていた気がするのだが、それはやや問題がある考え方だったと思っているので、そのことを書きたいと思う。


上で書いた「未来に夢を持って必死に云々」と言う生き方は、実は極めて恵まれた環境下においてのみ出来るものである。

えーと説明になってない。

逆に誰でも出来る生き方とは何かと言えば「死ぬまで生きる」ことだ。
その生き方を問わない、条件も問わない、ただ死なない間は生きている、と言う状態。
これは誰でも出来る。
例えば脳死状態でベッドに寝ている人でも、寝たきりになった高齢者でも、鬱になり絶望の淵にいる人間でも出来る。
そうした人々にとっては「死なない」様にすることだって厳しかったりするが、本人や周りが努力することは出来る。
必ず死ぬ生を生きる。
これを見つめた生が「必死」であろうと思う。


生き方死に方を云々するスタート地点はそこであり、それらに自分の思想や理想やなんやかやを乗っけてそれぞれの「あるべき生き方=死に方」が生み出されている。
だが、それらの追加条件はあくまで「追加」条件だ。全ての人が実現できるものではない。


例えば「未来に夢を持つ」なんてのはその典型で、これは言い換えれば「これから先の時期に、自分や周りがより幸せに充実しながら暮らせる状況を想定できる」ということと言えると思うけど、これが出来るには、まずは「より幸せに充実した」状況を想像でき、それが実現可能であると信じ、それと現実とのギャップを認識してもそれをどう埋めていくかと言うことを考えていく事が出来る強さが最低でも必要だ。
当然、それに向けて動けば周りを巻き込むから、周りに迷惑をかける事に耐える力や、むしろ周りへの迷惑を「夢に向かうための対価」として周りに認識させたりする交渉力も必要だろう。

ここ数日、いじめ自慢をしていた議員の発言が取りざたされてるが、「未来に夢を持ちそれを叶えようと努力する力」という点においては、難病に苦しみ明日にも死んでしまうかもしれない状況にある人よりも、彼らの方が勝っているかもしれない。彼らには余裕がある。
勝っているかもしれないが、必死さという点ではどうなのか?


「貧者の一燈」と言う話がある。
金持ちが金に飽かせて用意した豪華な明かりより、貧乏人が生活費を削って用意したわずかな灯明の方が価値があるという様な話。
このお話はつまり「必死さ」を測る尺度は他者との差ではなく、その人の中での比率だと言い換えることも出来るだろう。

その人その人に必死さがある。


未来を見ないこと、夢を語らないこと、願いを追求しないこと、生を謳歌しようとしないこと、等々は、いわば立派な灯明だ。
それは美しく格好良く魅力的だ。

しかし、それらを持つことはあくまで余剰的なものだ。
だからこそ魅力的で価値があるのだ。

それを持つ人間が、それをさも生きる上での最低限の条件であるかのように語ることは傲慢と言って良いと思う。
ただ生きるだけでも努力が必要な人々は世界中に沢山いる。未来も夢も願いも生の喜びも持てないでそれでも日々を精一杯生きようと努力するそんな人々の存在を、無意識の内に否定しているという点で。


で、だ、


件の記事に出てくる、未来も夢も願いも特になく日々の小さな喜びを謳歌する人々だ。

これのどこが怖いのだろう?
これが悪いことだろうか?

先ほどの話、最低限の生死に比べたら、日々の喜びを見出し、それに満足出来ている彼らの生は、十分魅力的で価値ある生き方だ。



怖いと思うのは、彼らの存在を認めることが、「未来とか夢とか云々」を最低条件と考える生き方が否定され、それを良しとする自分の存在価値が失われると感じているからだと思う。

「未来とか夢とか云々」の考え方を信じる人々は、その過程にいる自分も幸せだし価値のある存在だと考える。そう考えられるから生きることが出来る。

だがそんな所に、彼らの考えをその存在を以て否定する人々が現れる。

未来とか夢とか追い求めなくても、日々まあ幸せに暮らせてる人々。
彼らの幸せはここにあるが、未来とか夢とかを最上にして最低限とする人の幸せは未来とか夢の中にあってここにはない。

これは単に「幸せの形は様々」と言うだけの話だが、それを受け入れることは「未来とか夢とか云々」を最上にして最低限とするの価値観を揺らがせる。

維持するためには、自らが実際に未来を切り開き夢を実現し願いを叶えるか、さもなければ、未来や夢を目指さないのに幸せだと表明する者を調伏し、目覚めさせ、その不幸を暴き、未来や夢を目指さなければその不幸からは逃れられないことを認めさせなければならない!


…とまあ、
私が未来だ夢だとうなされてた当時は、そんなことを考え、飲み会などで熱く語ったりしていたのは今となっては微笑ましい黒歴史だ。

念のため言うが、件の記事の増田がそう考えてる、と言う話ではない。
私が昔、増田の言うようなことを考えていた頃の、自分のものの見方を書いた。


くどくなるが「未来とか夢とか云々」を貫ける人は貫けばよいし、それもまた価値のある生き方=死に方だと思う。
ただそれを金科玉条の絶対的なものと考えるのは間違いだし、絶対的なものではなく、人それぞれでよいと考えられれば、別に怖がる必要もない話だ。

皆がそれぞれ幸せでありますように(偽善か!)