多数決は手段であって民主主義そのものではない

安保法制が強行採決された。

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で、この強行採決についての各記事のブコメを見ていると

強行採決って言ったって正規の手続きを通して多数決で採決されてんだから、強行でもなんでもないじゃない。これが民主主義でしょ?自分が気に入らない法案が通ったからって“民主主義は死んだ”とか言うのっておかしいんじゃないの?」

というような意見が散見され、しかも割と多いのにうんざりした。

「多数決」=「民主主義」ではない。
そのことについて書く。

多数決は手段にすぎない

多数決は手段にすぎない。
もっと、より民主主義の実現にあった仕組みが開発されたなら置き換えられるべきものだ。
残念ながら現在はそうした代替の仕組みが見出されていないため、広く使用されている。

多数決はその性質上、どちらが多かったか少なかったかの判断が付きやすいため、多かったら勝ち少なかったら負けと勝ち負けで語られやすい。
そして、勝ち負けで語る人々は「勝ったら100%、負けたら0%」であると、その結果を見てしまいがちだ。

世界最古の民主主義の事例の一つ、ギリシャアテネで行われていた「陶片追放」の場合、陶片に僭主になりそうな者の名前を書き、書かれた陶片が6000に達した者をアテネから10年間追放するという形で使われた。
この事例の場合、6000に達した者と達しない者とには大きな差があるから、上記の「勝ったら100%、負けたら0%」の典型と言えるだろう。
(余談だが、この陶片追放では清廉潔白な人物がネガキャンによって追放されたりする事例もあったらしい。)

だが、民主主義で使われる多数決はどうか?
それを考えるためには民主主義の目的とは何かをまず考えるべきだろう。

多数決は道具だ。それ自体に価値が有るのではない。
多数決だけではない。
議会制も憲法も道具であってそれ自体が価値なのではない。

じゃあ民主的な多数決ってなんだ

民主主義とは「その共同体に参加する全ての民がその共同体の主としてその共同体の運営に参加すること」を理想とする考え方ということが出来るだろうか。
リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という言葉が一番スッキリする。

対立軸に置かれているのは「独裁政治」であったり「寡頭政治」であったり「神権政治」だったり様々だが、「その共同体の運営を特定の人(ないし人々)に委ねる状態」ということになるか。

歴史上では後者の体制の時期が極めて長い。
前者は小さい村や地域単位では行われていた事例もあるようだが、多数決や議会制や憲法を使って、国家規模で行われるようになった歴史は200年ほどだ。

歴史的に見れば、「前者だから国民は幸福で後者だったら不幸」などということはできない。その時代その地域の価値観で見て、後者の仕組みでも民が幸せに暮らしていた場合は存在するだろう。

いずれに立つにせよ、根本の目的は「その共同体の維持」だ。
少なくとも群れる「ヒト」という動物としてはそうだ。

だが、ただ維持するよりも「その共同体の民が一人でも多くより幸せな状態」の方が良い。
それを実現するために様々な仕組みや主義が工夫されてここまで来た。

民主主義もそのバリエーションの一つ。
「その共同体を維持し、共同体の民が一人でも多くより幸せになるためには、それぞれが主体的にその共同体の運営に参加するべき」という考え方に基づく。


だから、民主主義における多数決の利用目的も「一人でも多くより幸せになるため」である。

としたら、上記の「勝ったら100%、負けたら0%」という使い方は正しい使い方だろうか?
なるほど、多数派に属する人々は100%満足だから、その共同体の人間は概ね満足と言える。
だが少数派は0%不満となる。
非常に雑ではあるが、人数×満足度という数字を仮定してみる。

合計100人の村で、7割が100%満足だった場合、全体としては満足度は(60×100%+30×0%)÷100=60%と言えるだろう。
もし多数派が10%譲歩して少数派が10%満足したら(60×90%+40×10%)÷100=54.4%でむしろ満足度は減少する。

だが「完全に満足」が無くなる代わりに「完全に不満」も無くなる。みんなが「ある程度満足である程度不満」な状態になる。
前者では70人だけが「満足」だが、後者では100人全員が「ある程度満足」だ。

どちらがより民主主義の目指す「一人でも多くより幸せな状態」に近いだろうか?
恐らく後者だ。
だが、後者は非常にわかりにくい。

人間は満足より不満をより大きく感じてしまいがち。
だから上記のような事態になった時、それを「ある程度満足」ではなく「不満が残る」と感じてしまう。
そのため「多数派も不満、少数派も不満」な状態より「多数派は満足、少数派は不満」の方がまだマシだと考え、多数決を勝ち負けで見てしまうし、「勝てば100%、負けたら0%」であるべきだと考えてしまうのだろうと思う。

だが、それは民主主義の理想ではない。

じゃあどうすればいいのか

女性に幾つか並べたアイディアから「商品化して欲しいもの」を選んでもらうアンケートを取って一位のアイデアを商品化した。
全く売れなかった。

マーケティング業界によくある話だが、この場合、もともと用意したアイディア自体に魅力が無かったり、アンケートを取る対象、取り方、分析の仕方などの問題もあるが、なにより「一位だったから商品化した」点が一番の問題である場合が多い様に思う。

ユーザーのニーズは目に見えず隠れていることが多い。
本当のニーズを汲み取る作業が必要だ。

上記の場合、アンケートを取った後、そのアンケートを分析して、並べたアイディアとそれに対する反応の中から、本当の意味でのニーズを掘り起こし、商品化すべきだった…という結論に至ることが容易に想像できる。反省会の席上で。

(非常に恣意的な喩え話を持ちだして申し訳ないが)

「多数決で決定」には上記の「アンケートで商品化」に通じる問題点があると思う。
多数決で見えるのは、賛成者反対者の比率。

多数決の取り方を変えほんとうに必要なことを掘り起こせるものにしたり、それで決定ではなくその結果を踏まえて、再度審議を行い問題点をブラッシュアップしていく。
そんな作業の道具として、多数決を使うべきなのではないか。

もちろんその場合、党議拘束などは無し。
でなければ本当のニーズは見えてこない。

(「このゲームは面白かったですか?」という設問に「面白くないと答えた場合ゲーム機器が使えなくなります」と追記したら「面白くない」と答える人間はあまりいなくなるだろう。そのアンケート結果はニーズの反映としては全く正しい結果ではない。)



繰り返しになるが、多数決は民主主義そのものではなく道具にすぎない。
使い方次第で民主主義の理想から逆行することだって可能だ。

私は今回の安保法制の採決は、反対派の声を全く聞くこと無く、党内の批判も許さない中で手続きだけを揃えた採決だったし、世論調査などとも連動していないという点を以って、やはり「強行採決」だったと思うし、民主主義の理想を大きく外れた行為だったと思う。

だからと言って手続きを無視して無かったことにすることは出来ない。
手続きを踏んで、政権を与党から奪い、法案を無効にしていく必要がある。
反対の声を上げ続ける必要があるのだ。


knagayama.net

これを読んでこの記事を書こうと思った。
本人曰くほぼ丸写しらしいが非常にスッキリわかりやすい文章だった。