憲法の○○の自由の使い方

自由の国は不自由?

自民党全体主義的な勉強会の話が盛り上がったが、ここで「表現の自由」をに関し、よく「宗教の自由」に対して起こるような勘違いが発生しているようだ。

昔、学年発表の芝居に「自由の国」に行く話があった。学校や親からがみがみ言われた生徒がその国に行って自由を満喫しようとするとみんながわがままになってしまって何も出来ない、そこで「お互いが理解し合うことが大事なんだね」と言うラストに至るという話だった。

当時はなるほどなあと思ったし、今でも「自由」をこのように解釈している人は比較的多いのではないかと思う。
端的に言えばこの見方は「自由=わがまま」と見ている。問題となるのは「わがまま」と言う言葉に含まれる「他者を考慮せず自分の欲望のみを追求する」というネガティブなイメージだ。
実際上の芝居が行われた時、感想に「自分の自由ばかり追い求めることは良くない」と言うようなのがあったのを覚えている。
昨今でも自民党憲法案の解説にこんな感じの書き方をしてるものがあった。
だが、ここで語られているのは憲法で語られてる自由ではない。

こうした「自由=わがまま」という理解が、表現や信教の自由を語るとき「あいつが俺の○○を批判するのは自由の侵害だ」と言うようなコメントが出てくる原因になっているように思う。

憲法で語られる自由の保障主

では憲法で語られる自由とは何か。
自由と言う言葉が政治的な場面で重要視されるようになったのは18世紀の頃からで、日本国憲法に盛り込まれて基本的人権等の考えもこの頃のフランスやアメリカの人権に関する考え方を受け継いでいると思われるので、憲法における自由はこの当時の意味合いで使われていると考えるべきだろう。

この当時希求された自由とは国家権力からの自由である。
だから、自由に関して書かれた条文の「保証」し「侵してはならない」のは国家権力である。
これは信仰の自由や表現の自由他、憲法で保証されてるあらゆる権利がそうである。

だから、個人同士がお互いの自由を言い募る場合、相手の表現を批判するのは表現の自由の侵害ではない。
憲法は個人同士の権利がバッティングするような場面を想定していない。
日本国憲法 第十二条の後段に

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

とあるが、どういう場合の自由が優先されると言ったことは書かれていない。

あくまで国家権力が国民に保証するのが憲法の語る自由なので、ヘイトスピーチを行う人間を赤の他人が不快だからと規制することは出来ないし、ヘイトスピーチを行う連中に抗議する人々を「表現の自由を侵害している」と非難するのも的外れだ。
どちらも憲法の語る自由とは直接関わりないことだ。

だが、国家権力に連なる人間が表現したものはどうか?

こと個人レベルでは、例え不快なものであってもそれを止める権利は無いといわざるを得ない。
だが、そうした考えを持って国政に参加しているということは、憲法によって保証されて様々な自由を侵害する可能性が高いと疑われても仕方ないだろう。
彼らは第九十九条によって憲法を尊重し擁護する義務がある。それを怠っている=憲法違反だ。

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

自由や人権を侵害し、差別的な思想を国政に反映させようとする人間を批判し、正当な方法で国政から引き離すことは、第十二条に語られる「国民の不断の努力」と言う奴に含まれるだろうと思う。

国家の絡まない自由は哲学や宗教の話

自由といい不自由という。
そのとき人は自分を縛る何かを見てる。
だが、あらゆることから自由な存在はこの世に存在しない。
あれやこれや何かでつながっている。
それぞれを快と見るか不快と見るかはその人その時その場で変わる。
どのしばりを受け入れどのしばりを断ち切るかは哲学や宗教など生き方の話だ。

憲法は国を構成する。
だから憲法は国の名の下に自由を保証する。
そしてそれは国の名の下以外では力を持たない。
憲法は宗教でも哲学でもライフハックでもないからだ。