抑圧装置としての神

Facebookのタイムラインにホーキンス博士の無常感的記事へのコメントが上がってきたのだが、曰く、「天国や地獄とかを設定することによって人は自分たちをコントロールしている。それが無かったら人は快楽の赴くままに行動してしまう。」という。

コメントしようか悩んだが、こちらに書くことにする。

この手の発想は別に珍しいものではない。規制が無ければ、人はやりたいことを追求し、倫理は失われ、無秩序が広がると考えがちだが、個人的にはなんだかしっくりこないのだ。

本当にそうだろうか?


もちろん、状況や構成員の組み合わせで答えが大きく変わる話であるのは確かだが、たとえば東日本大震災発生後の被災地で、略奪も強盗もほとんど起きなかったことはどうだろう。
確かに件の事態において法治機能が完全に消滅したわけではないし、いわゆる空気を読む的な国民性から、心の赴くままに行動する人があまり出なかったということはあるだろう。
だがその手の話をする時、対比として「他の国なら暴動が起きてる」ということが言われた。

日本スゲー的な話としてはさておき、「ある人々にあっては倫理観を失う状況にあっても、倫理観を失われない人々はいる。」ということは言えるだろうし、とすれば、上述した神も仏も天国も地獄も存在しなくても、倫理観を失わない人はいてもおかしくない。

何故だろう。


私は、快楽を追い求め感情の赴くままに生きることは、才能もしくは訓練無しではできないのではないかと考えている。

私たちが心に願い、でも社会的にやってはいけないと思って我慢している諸々のこと。
私たちはそれを我慢してると思ってるが、本当にそうだろうか。それを閉じこめる方が楽だから閉じこめてるのではないだろうか。


よくある物語設定に神様や国家やその他諸々の大きな何かが世界を抑圧する装置として機能している状態がある。
若い世代の作品に比較的多いが、世代的なものでもなく、昔からの定番中の定番であり、その抑圧と、主人公の内的衝動のぶつかり合いの果てに大爆発を起こしカタルシスが訪れるパターン。
勧善懲悪物の典型パターンだし、昨今のライトノベルの「優しいだけのひ弱で凡庸な少年が秘めたる偉大な力で世界を変える」みたいな話では欠かせない装置になっている。

こうした装置が使われるのはわかりやすいからだが、何故わかりやすいのだろう。

たとえばライフハック的な記事に「貴方の願うことを躊躇せず挑戦しよう」などというのがよくあるが、そうだと思いつつなにも動き出さない人もまた多い。
彼らはその理由を色々と持っている。
だが、突き詰めると「なんとなく」である場合が少なくない。
それを「傷つくのが嫌だから」「面倒くさいから」なのだと見る記事があったが、そんなことではなく、本当に「ただなんとなく」なんだと私は思う。

ではでは、この「ただなんとなく何もしない状態」とはなんなのだろう。
それこそが本来のニュートラルな状態なのではないか?

神も仏も天国も地獄も無くなった時、そこにはただ何となく何もしない状態が残る。
「倫理観も失って心の赴くままになにかをせずにいられなくなる」としたら、その「ただなんとなく何もしない状態」にいたたまれなくなるからであって、「何かせずにはいられない」のはあくまで副次的な結果なのではないか?そして倫理観もまたそうした「何か」の一つなのではないかと思うのだ。

倫理観とは、神とは仏とは、天国と地獄とは、感情を押さえつける抑圧装置ではなく、感情と同列の物にすぎないと。

絶対的な圧倒的に大きい存在に抑圧された自分という物語は、それをはねのけ自分のやりたいことをやる時、やらないためのいいわけとしてモッテコイだ。
だから、絶対的な抑圧装置としての存在を仮定する。

でも、その大本はその人の精神力だと思う、イドかエゴかスーパーエゴか、いずれにしてもその人自身の中の存在だ。
そしてそうしたものを想定することでバランスを取るのだろう。


つまり、神や仏やその他諸々が失われた時、人々は倫理や秩序を失うのではなく、新しい抑圧装置を生み出すか暴発するエネルギー自体を失うのではないだろうか。
もちろん、その変動の過程でエネルギーが暴発することはあるだろう。でもそのズレはすぐにエネルギーの減少か新しい抑圧装置の登場で埋め合わせされバランスが取られるのだろう。
そのバランスが崩れた状態を維持するには才能が必要なのだろうと思う。


だからなんだ、という類の話ではあるが。