殺しの罪に違いはない

headlines.yahoo.co.jp


を読んで

生放送で子ウサギ撲殺 デンマークのラジオ局「畜産業の残酷さ伝えるため」 (AFP=時事) - Yahoo!ニュース

食にするため即死させて解体するのと、それを残酷だと表現するために撲殺するのと、明らかに後者の方が無益で残酷だ。言葉を放棄したテロリストのやり方だよ。それを言葉が命のラジオ局がやるか。

2015/05/27 14:09

ブコメしたが補足。

他の人のブコメを読んでいたら

食用にするでも撲殺して食うのもどちらも残酷なんだが?なんか食用にするために殺すのは大丈夫って本当人間のエゴイズムは酷いな

というのがあった。
そりゃそうだ、と思った。
思ったけど、私はやはり違うと感じている。何が違うのかを書いてみる。

私は「残酷」なものとそうでないものは、その行為そのものが暴力や破壊や侮辱などの要素を持つだけでなく、それを見た人がその行為に共感できるかどうかで決まる部分もあるのではないかと考えている。
つまり、見た人がそれに共感できればどんな「残酷」な行為も「残酷」とされず、共感できなければどんな優しい行為も「残酷」とされる場合があると。

(これは、どちらが正しいとか良いとかという話ではなく、世の中そんな風に「残酷」っていう言葉が使われがちじゃないかという私個人の印象なのだけど。)

そういう傾向があるからこそ、閉じた世界でのリンチ殺人なんかも起これば、良かれと思ってやったことが非難の嵐を巻き起こすなんてことも起きる。


今回の場合、絶対的基準から言ったら、自分たちの都合のために他の動物の命を奪っているという点では何のちがいも無い。
「自分の都合で命を奪うこと」は「残酷」だとするなら上のブコメはその通りだし、実際そう感じる人も多いと思う。


でも、上記したような他の人の共感を軸に見た場合は当然変わってくる。


屠殺の際は一般に、迅速に仮死させ、放血して、解体を行う。
これは血が残ってしまうと衛生面でも食味の点でも問題があるからだが、結果的にその家畜が苦しむ時間は少なくてすむ。
そして解体された肉は食用とされる。

人間は他の生命を食べなければ生きていけない。人類の歴史は、様々な生命の命を、より効率よく、より大量に、より高品質な形で奪うこと、それをより美味しくより栄養価の高い形で摂取するために工夫を凝らしてきた歴史だし、食文化とは正にその集合体と言える。
この歴史に参加していない人間はおそらく一人もいない。
生きてる人間は皆、自分もしくは誰かの殺害行為の果てで生きている。

屠殺はその歴史の枠内の話だ。

自分たちの都合で他の動物の命を奪うことは「残酷」だ、「残酷」だとしても、だからといって現状、完全に無くせるものではない。
(ある殺害方法を完全に無くすと言うことは、それによって食料を得ていた人々が食料を得られなくなるということだ。)

もちろん、現在の世界特に先進国とされる地域では食料が余って、手も付けられなかった食材が廃棄されたりしているわけで、フランスではこんな取り組みまで始まった。

売れ残り食品の廃棄を禁止する法律、フランスが全会一致で可決

美しいことは偏りであることの典型例。言い方を変えれば家畜飼料や慈善団体に送る形に廃棄方法が変わったわけで、それらの受入体制と最終処分の形が安定するまで混乱は必至。実験としては面白い(無責任)。

2015/05/27 08:21

※これはこれで問題があると思うが省略

  • 無駄にされる食料=無駄に殺害され廃棄される命を少しでも減らすこと。
  • ある種が過剰に膨れ上がり生態系を破壊してしまうことを防ぐこと。
  • ある地域の食文化が一方的に蛮行として批判・攻撃されること。

これらはお互いにつながる問題で、その根源には「人は命を奪わなければ生きていけない」ということがあり、それへの不安や恐怖、それに対する反発と無視などが絡みついている。

生きる以上避けて通れないからこそ、例えばキリスト教では「原罪」という言葉で、犯さざるをえない罪を規定しているのだと思う。仏教だって戒律に不殺生戒というのがあるけどだからと言って食事を禁止している宗派は存在しない。

畜産業における屠殺は、残酷ではあるし個別に見ていけば無駄な殺生を減らす余地はあるだろうけど、簡単に無くすことは出来ないということは、食について調べていけば理解できるところだと思う。



では件の撲殺はどうか?

今回、この番組では、畜産業の残酷さを伝えるためにウサギを撲殺した。
彼らはそうすることで畜産業の残酷さを伝えたかった、伝えられると考えた。

それ自体は理解できる。
だが、今回の行為で伝わったのは「自分たちの目的のために命を奪うラジオクルーの残酷さ」だったのではないか。(だから批判が起きた)
目的と行為がズレ。

「畜産業の残酷さ」を表現するなら、実際にそこで撲殺するなどと言う手を取らずに表現する方法はいくらでもあったはずだ。
実際に屠殺場を取材するだけでもよいだろう。
あるいはSEで作ることも出来る。
彼らはそうせず、撲殺を選んだ。
より「残酷さ」を表現するために。

彼らは畜産業の現場の音や、畜産業についての語られた言葉で説明することではなく、「自分たちがウサギを撲殺したと言う事実」に語らせることを選んだ。だがそれは「畜産業の残酷さを表現する」という当初の目的を大きく逸脱してる。

それは何故だ?


今回の彼らの行為を有りとして「畜産業の残酷さを表現する」のなら、彼らは自ら殺し、解体し、料理し、食べる所までを通して伝えるべきだった。
畜産業とは人間が生きるために犯さざるを得ない罪だが、犯さざるをえない理由は「それを食べて自分の生きる糧とする」からだ。

彼らはそうする予定だったと語った。だがその場ではやらなかった。
放血もせず、その場で皮も剥がず。
後日に回したのは肉を熟成させるため?そういう説明もない。


表現行為として考えた場合、彼らの行為は中途半端だ。
センセーショナルなインパクトを得るためだけの行為にしか見えない。
実際にそこでうさぎを殺す必要があったのか?
なぜ取材音源じゃダメだったのか。合成音声じゃダメだったのか。
リアリティを求めて?上記の手段でもリアリティを求めることは出来る。

他に手段はあった、あえてその方法をとった、その方法は命を奪う方法だった、その方法では彼らの目的は中途半端にしか達成できなかった。
それではこの奪われた命は何のために奪われたのだ?
彼らの趣味趣向のために奪われそれで終わってしまったということではないか。

…ということで、私は表現行為として考えた場合でも彼らのやり方に共感することが出来ない。
彼らのやり方には殺したウサギに対する敬意が見受けられないように感じる。
モノとしてしか考えていない。

確かに彼らのような人はそれなりにいるし、人間社会は畜産業その他の業を通してもっと多くの生き物の命を常時奪い、その結構多くを無駄に廃棄している。彼らはそれを伝えたかった。
だが彼らのとった表現によって伝わったのは彼ら自身の残酷さだった。それは本来の問題、彼らが目を向けさせるはずだった問題への理解への道を閉ざすことはあっても開くことはない。

テロリズムがテロリストの主張への理解ではなく恐怖と憎しみを生みがちであるのと一緒だ。
テロリストは破壊や殺戮などの事実を以って自分たちの主張を訴える。彼らは「それをしなければ誰も我らの言葉に耳を傾けない」からとその行為を正当化する。
もちろん、テロリストが発生する原因はその周りの状況に起因する。そこを改善することがなければ無くなることはない。だから彼らの言葉を理解する必要はある。
だけど、それによってテロリズムが正当化されることは無い。破壊は破壊、殺戮は殺戮だ。


件のラジオ局は、「ウサギの殺害」という事実を提示した。その原因はデンマークの畜産業の残酷な状況にあった。だからと言って「ウサギの殺害」が正当化されることはない。殺害は殺害だ。

「もし彼らがそのウサギの肉を食べたらOK?」
私はむしろそこまでを織り込んで番組を作るべきだったろうと思う。
そういう番組だったら批判はもっと少なかったんじゃないかと思う。
彼らは殺すだけ殺して、自分たちの言葉を伝えてそれで終わった。これはテロリストと同じやり方だ。

そこから聞いた人に本当の理解は生まれない。
本当の理解につながらないなら彼らの犠牲になったウサギはただ命を奪われただけの存在だ。


繰り返すが、最初に引用したブコメの様に「殺害=残酷」なら、屠殺も撲殺も違いはない。殺しの罪に違いはない。
だが、屠殺の現場ではその生命は食料となる。ある動物の屠殺を中止したとしてその代わりその分他の命を奪う必要が出てくる。
件の撲殺ではただ「命を奪う」ことを表現するための道具としてだけ使われそれには代替方法があった=殺されずに済んだ可能性があった。

この違いから私は屠殺より件の撲殺の方がより「残酷」だと感じたのだと思う。