「お金のないおじさん」より「キモイお金のないおじさん」が弱者である可能性

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これに、

決して救われない社会的弱者「キモくて金のないおっさん」について語る - Togetterまとめ

ああ…身につまされる。キモくて金のないいおっさんの物語というと「最強伝説 黒沢」くらいしか思いつかない。

2015/05/23 10:01

ブコメしたが補足。と言うか蛇足。

オッサンの話

この文章に対するブコメを色々見ていると、

  • 弱いおばさんに比べたらよっぽどマシ
  • オッサンというだけですでに既得権益

という考えをしている人が割と多いように感じた。

言うまでもなく「オッサン」=「中高年の男性」であることによって、その人が一般的に言われる「おっさん」そのものであると考えることは「あの人は女だから○○」「あの人は??人だから○○」といったことと同じで差別的な考え方である。
この場合「世代&性差別」になるか。

日本国内では、男性と女性とでは男性の方が、若い世代と中高年世代とでは中高年世代の方が平均収入が多い。
だから「一般的にオッサンはおばさんより若者より経済的に恵まれている」ということは言えるだろう。

だからと言って「あのオッサンは私より恵まれている」とは必ずしも言えない。
上の話はあくまで平均の話で、その人が自分より恵まれているかどうかのデータが無ければ判断できないからだ。

金のないオッサンの話

元記事では「キモくて金のないオッサン」という限定をしている。
これは「キモくない」vs「キモイ」、「金がある」vs「金が無い」という要素が絡むと前者より後者の方が社会的弱者となることがあるという、暗黙の前提の下「キモくて金のないオッサン」を社会的弱者として保護すべきと論じている。

「金の有る無し」で言えば金が無い方が社会的弱者となるのは一般常識と言っていいだろう。
上記の平均年収の部分はつまり金の有る無しの話だから、「一般的に経済力があるとされる中高年の男性の中でも経済力がない人々」と限定した場合は、これはまあ「貧乏人は社会的弱者だ」という話だから、十分成立する。


それに対し「弱いおばさんの方が」とか「○○の方が」とより恵まれて無さそうな要素を持ってきても意味は無い。
そこで並べられた属性のどれに所属する人も社会的弱者なのだから、等しく社会保障の対象とされるべきで、「一般的に経済力がある人が多い層に属する人間はその時点で社会的強者だ」というのは差別以外の何物でもない。

(もちろん、就職の可能性などを考えたら一般的に男性の方が有利な場合はある。ただ単なる「オッサン」だけが条件なら「オッサン=社会的弱者」と言うのは言いすぎだろう。だが、わざわざ「金がない」と限定しているのだ。)

キモイオッサンの話

では「キモイ」は?

この言葉は対象が広い。
見た目、言動、考え方、テンポ、匂いや触感、言葉に出来ない雰囲気などなど。
ある人がある人を「キモイ」といった場合その理由は様々で、その理由が他の人の共感を得る場合もあるが、「なんだかわからないけど生理的にイヤ」という場合も多く極めて個人的なものであると言える。

だが、この個人的であるはずの「キモイ」は他の人間に共感を与え共有されやすい。
共有する同士で「キモイ」の原因は違う場合もある。
なのに「あいつキモイよね」という一言が容易に共感を与え共有されるのだ。
そして、その環境のある程度の人間がある人間に対する「キモイ」を共有すると、そこにその人間に対する差別的な扱いが正当化される場面が現出する。
いじめの現場にはありがちのパターンだ。

いじめとして発覚した時、周りは「いじめるためにキモイと言った」と考えがちだが、本人たちは「キモイと思ったから、キモイ奴として接した」と考えている場合が多い。
「キモイやつとして接したらいじめになっただけで、いじめるつもりはなかった」と。
そして、それを聞いた第三者の中には「いじめられた方の子にキモイと言われる原因があったのも確かだ」などと言い始める者が出てくる。
「もう少しいじめられる子が気をつければ、彼らだっていじめようとは思わなかったはずだ。」
「キモイと思わせた方も悪い」と。


こうして「キモイ」は許容される。


「キモイ」は個人的なものだ。根拠もあやふやな場合が多い。
だが「根拠があやふやだけどキモいと感じる感覚」自体は誰もが持っている。
だからそれは許容されがちだし、共感され共有されやすい。

そのため、逆に「キモイ人を擁護すべき」という考えは、それぞれが持つ「キモイ人」のイメージが基準となるため受け入れがたくなる場合が多い。


そしてキモくて金のないオッサン

そして件の記事の「キモイオッサン」。
この表現も極めて個人的なイメージを喚起させるものだ。それぞれの中に厳然として具体的な「キモイオッサン」像がある。

ここで論ずるべきは「キモイオッサン」は「キモくないオッサン」より社会的弱者か?という命題だが、以上のように「キモイ」が個人的なものである以上「キモイ」「キモくない」で直接に社会的強者・弱者を語ることは出来ない。

だが、上記したように「キモイ」は共感を呼びやすく共有されやすく許容されやすいので、雇用主が様々な理由をこじつけて不採用としたり減給したり解雇したりした時、その本当の理由は「キモイ」であったりすることは割とあり、裏でそのことを笑い話として語っていたりすることがあるようだ。

この時「キモイ」ことによってその人が差別的な扱いを受けたことはけして公的な記録には残らない。雇用主はその感情は個人的なものだからそれは公的には通らないとわかっているからだ。
しかし、現実には「キモイ」ことによって社会的弱者が発生したと言える。

もちろん、繰り返しになるが「キモイ」は個人的な感覚なので、Aから見てキモかったBが、Cから見てもキモイとは限らない。だが、ある人に「キモイ」と言われた人が他の人からも「キモイ」と言われる確率は高いだろうと思われる。
その人の感覚は、その人の人生の中で培われた価値観と直結しており、同じ社会で生まれ生育する人は似たような価値観を持ちがちであるから、あるものを見て「キモイ」か「キモくない」かの基準も似通っている可能性があるからだ。

だから、間接的には「キモイ」ことは社会的弱者になる可能性を高めるということは出来るだろう。


「キモくて金のないオッサン」となった場合、その金のない状況の遠因にはその人が「キモイ」と判断されることがあるだろうし、オッサン=中高年であることもあるだろう。
ただのオッサンといった場合は社会的強者である可能性もあるが、「キモくて金のないオッサン」は確実に社会的弱者と言って良いと思う。


ただ「金のないオッサン」に比べ「キモくて金のないオッサン」は、「金のない」状況の遠因である「キモイ」が公的には存在しないものとされ、私的には暗黙の内に許容されがちであるために、その状況を改善する機会を得にくい。

こうした問題は、もちろんオッサンだけの話ではない。キモイおばさんもキモイ若者もキモイ老人もキモい子供もみんな同じ問題を抱えている。


では「キモイ」に絡んだ差別を無くす方法はあるのか?
現状ではむずかしいと思う。

今社会的に問題とされてる様々な差別。
例えば人種差別、性差別、部落差別、学歴差別などなど。
それらよりももっと根が深い、価値観に直結した根源的な嫌悪感がベースになっている。

性差別などを考えても、現状「当たり前」と思ってい多くのものの中に性差別は存在しており、それらを今までの見方考え方を丁寧にほぐしながら見ていかなければ、自分の中に差別意識がある事自体に気が付けないことは多い。
ましてや、根拠が個人的な感覚に属する「キモイ」を明確に認識し、それによって自分の言動や思考や判断に差別がないようにすることは、相当難しいと思う。
「キモイとかどうかで差別なんかしないよ」と言っている人ほど、現実には自分の「キモイ」という思いに簡単に影響を受けている。



私達は自分の感じた「キモイ」をごまかす方法、ごまかしつつ他人と共有する喜びを、それによって差別される苦しみ以上に知り過ぎている。
自分の「キモイ」ときちんと対面してそれを乗り越える人が増えること、そして、金のない状況に置かれた人々をサポートするシステムが充実していくことが両方進まなければ、「キモくて金のないオッサン」は救われないだろう。
「キモくて金のないオバサン」や「キモくて金のないジジババ」や「キモくて金のない若者」と同様に、「キモくて金のないオッサン」もまた社会的弱者として救われるべきだと思う。



でもね、すぐ横に自分から見てキモくて金のないオッサンがいて金くれって言われたら多分拒否してしまうと思う。
「私が小銭あげたところでなんにも解決しないでしょ」と言い訳しながら。
だから、ここまで書いたことは自分に対する戒め。
私自身が「キモイ」に立ち向かう事ができるように。