読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

罪と罰の関連性は恣意的なもの

ある罪に対し罰が与えられる。
そのつながりが納得いくものであった場合、人はそれを因果応報と呼ぶ。

もちろん元々の仏教用語の因果応報とは別物だ。仏教用語のそれは結果には原因があるということを示してるのみで、それを聞いた人が納得いくかどうかなんて関係ない。

しかし人は無意識に、そこに自分を納得させてくれる理由を見つけだそうとしてしまう。
原因に見合う結果を、結果に見合う原因を。
人智の及ばないものにさえそれは求められる。いわんや人の為す罪とそれに対する罰においておや。

ある罪、その罪の原因と結果、それに見合った罰。そこには人の世の様々な物語が凝縮されている。
だが、それは常にある一つの視点、価値観から断じられたもの、恣意的なものであると言うことができる。神ならぬ人の身ではそこから脱することは出来ない。
どんな罪に対しどんな罰を対応させるか、その人々が持つ価値観などに依存する。

ある時代、ある地域の人々にとって納得の行く罪=罰のつながりが、他の時代・地域では奇妙なものに思われるのもそのためだ。



そしてまた、罰はその罪を犯した人間の実情を無視して設定される場合が多い。
だから、罰を受けた人間が再び罪を犯すパターンもよくある。

もし罰が、罪を犯した人間の実情や思考や生理を踏まえた上で構築されたなら、再び罪を犯す確率は大幅に減るだろう。

罪という因が罰という果を生むように、罰もまた新たな因となるのだから、恣意的なものであるからこそ、もっともっと柔軟に適用されるべきなのだと思う。
被害者がいる場合はなかなかそうもいかないだろうけど。

因果応報が世の理なら、少しでも良い因果を模索することが生きる価値なのだろうと思う。