偏りはお互いの人権の尊重と実現を妨げる

otokitashun.com

この記事に対し、

「投票に行かない若者が悪いだけ」という言説の恐ろしさ | 東京都議会議員 おときた駿 公式サイト

なるほど「若い世代は選挙に行かない」を前提にそれでも若い世代も暮らしやすい社会を作るために既存の民主主義システム自体を見直すべきでは?という問題提起。有りだと思うが既存システムと整合性取れないのでは?

2015/05/19 11:15

ブコメしたのだけど、100文字では言い足りないので補足。

選挙に行かない若者も幸せに暮らせる社会

この記事を簡単にまとめるなら

  1. 若者は選挙に行かない、これは普遍的事実である。
  1. だから選挙においては若者は少数派になりがちで、人口自体が減る今後は益々その傾向が加速する。
  1. だから若者が暮らしよい社会にするにはその少数派である若者の意思を汲み取る仕組みが必要だ。

ということだと思う。

私としては最初の決め付けは首肯しがたいのだが、実際問題選挙に行かない若者は多く、私が昨日の記事で書いたような想定は現実としてはほとんど起こりえないと言っていい状態なのは確か。

しかし一方で、現在の民主主義のシステムは「参政権を行使する」ことを前提としたシステムになっている。
何故かといえば、民主主義以前のシステムでは参政権を行使する国民は限られているか、全く行使できない場合がほとんどだったからだ。

超アバウトな政治体制の変遷

例えば、江戸時代には徳川将軍を頂点としつつ、その地域を治める領主によって法が定められ、運用されていた。例えば大阪では商人の組合(株仲間)が幅を利かせたり、直接民主制的な仕組みを持っていた村があったりはしたがあくまで例外であったし、住民全てが参政権を行使することなど出来なかった(そういう権利自体があるということさえ意識されなかった)。

また、初期の大日本帝国憲法では国税を15円以上収めている満25才以上の男性しか選挙権はなく、全人口の1%しかいなかった。初めて衆議院議員選挙が行われたのは1890年(明治23年)で、それ以前は選挙権自体が認められていなかった。


こうした時代、住民、より言えばマイノリティの意思を反映させるにはどうすることが出来たのか。
たぶん「お上の情けにすがる」しか方法は無かったのだろうと思われる。

「為政者は普く民の生活を眺め、過不足があればそこに手入れをし、皆が幸福に暮らせるようにする。」
古代の黄帝を始め、古今東西にある「為政者かくあるべき」というモデルを通して、民の意思を汲み取ることを為政者に求めてきた。
それは複数の人間が為政者のグループを構成する場合もそうで、例えばローマ帝国の評議員や貴族に対してもそれは求められてきた。
いわゆる「ノブレス・オブリージュ」だ。

しかし、このシステムには致命的な欠陥がある。
民の幸福追求のための実効性は、為政者自身の意思と実力に完全に依拠している点である。
「民が皆幸福に」はあくまで努力目標であり、出来なかったとしてもそれによって為政者が直接ダメージを受けることもないし、問題とならない。

もちろん、あまりに痛めつけられた民が荒れることで国の生産力が下がったり、反乱が起きて為政者が倒されたりという可能性はあるわけだが、逆に言えばそういった非常手段に出ない限り、為政者と民のリスクは合致しない。
リスクが合致せず、メリットだけで見たら為政者がその権力を使って自らの利益追求を行った方が良いわけだから、「民のために心血を注ぐ為政者」はめったに存在せず、だからこそ理想的な存在として巷間の物語の中で語られるてきたのだろう。


云々と書いていたら、言いたいことがまとまっていたブログ記事があった。
この記事の後半をどぞ。

blog.goo.ne.jp


うん、脇道のそれすぎていた。

「民主主義」も「立憲主義」も「人権の実現」も道具

国の存在意義は「国民皆が自由に幸せに平和に暮らせる状態を目指すこと」であるけど、古代から中世までは、それを一部の為政者に権限を集中させる形で行っていた。
近世以降、既存の枠組みへの見直しが各ジャンルで進み、その方向性が政治においては「王権」から「人権」を中心にする考え方に進んでいったのだと思う。(あやふやだねどうも)
近代以降、この「人権」をどう実現するかに向けた取り組みの中で、最適とされブラッシュアップをされてきたのが「立憲主義」であり「民主主義」なのだろう。
現代においては、システム上かつての様に一部の為政者に権限を集中させている国家・地域(例えば軍政が敷かれているような地域)においても「人々の人権を守るため」という言葉がエクスキューズに使われるほど、「人権」の実現は国家・地域の主要な目的とみなされている。

注意すべきなのは、現代において「人権の実現」が重要とされる理由は、近現代の歴史の中で、上に書いた「国民皆が自由に幸せに平和に暮らせる状態を目指すこと」を実現した状態は「お互いがお互いの人権を尊重し尊重された状態」であるとする考え方が広く認められてきたからであるという点。
これはいわば現代の常識であって、永久不変の真理ではない。

「人権」という言葉がない時代から、心ある為政者は「国民皆が…云々」を目指していただろう。それが奇跡的に上手くいっていた時代・地域もあっただろう。「人権」という言葉が無かったからといってそこに民の幸せが無かったと考えるのは間違いだ。

同じようにそこの政治システムが見た目民主主義的な構造になってているからといってその時間・地域の人々の「人権の実現」や「自由で幸せで平和な暮らし」が保証されるわけでもない。


大事なのは言うまでもなく「国民皆が自由に幸せに平和に暮らせる状態を目指すこと」であり、そのためには「お互いがお互いの人権を尊重し尊重された状態を目指すこと」が必要であり、それを実現するために「立憲主義」や「民主主義」が用いられ十分に機能する必要があるのだ。


そこまで選挙の意味を遡れば、件のブログ記事の主張のように「選挙に行かない若者も幸せに暮らせる世界を目指す」ことは大事だということは出来ると思う。

だが、そのための方法論として

世代別投票制度や、子育て世代に倍の票数を与える調整システム

と言うのは、権限を選挙に行かない世代に偏らせるという意味合いでしかなく筋が悪いと思う。
今回の結果に対する反動でしか無い様に感じるからだ。

これによって若者の意見が政治に反映されやすくなる。
だがそれは「全ての若者の意見」ではない。
あくまで「選挙に行く若者の意見」だ。
そしてその意見は「選挙に行く年寄りの意見」より重視される。

結局それは「選挙に行く若者」の権限を他の人々より強化するということであって、政治システム的に言えば過去の「一部の為政者に権限を集中させる」方向性に近づくことを意味している。

そうなれば、「選挙に行く若者にウケる政策」が通りやすくなるだろう。
もちろんそれは悪いことだけではないはずだが「選挙に行く若者にはウケるけど、他の人々の人権が阻害されるような政策」が出てきた場合も通りやすくなるということだ。

その先に「人権の尊重」それによって成し遂げられるべき「皆の自由で幸せで平和な暮らし」があるのだろうか?

これは空論だ。
「ダメな政策はダメ」という程度の話だ。
しかし政治システムは一度変われば数年から数十年はそれが使われ続ける。
だからこそ、できうる限り「ダメな政策はダメ」と否決されるようなシステムを目指すべきで、そのためには「あの人たちがイイといえばダメな政策もイイ」とはならない様にデザインされるべきだと思う。


その結果「ある人から見て最善と思われる政策がなかなか実現しない」状況や「ある人から見て最悪と思われる政策がなかなか否決されない」状況も起こる。


システムそのものは判断能力を持たない。

しかしシステムに予め偏りを持たせれば、その内容の如何に関わらず、結果にも偏りが生じる。
判断能力を持たないはずのシステムに判断基準を持たせることになるのだ。

しかもその基準に良し悪しの判断はない。
誰の意見かだけが基準となる。
それでより良い状態を目指せるのか?

老人が中年が判断を誤ることがあるように、若者も子供も判断を誤る。
老人は中年や若者が、若者は中年や老人が、中年は老人や若者が、自分たちより一層誤りを犯しやすいと感じる。
というかそもそも人は「他人は自分より間違いを犯しやすい」と考えがちだ。
それは多分お互い様だ。
ならば、同じように誤ることが想定されるなら、偏りをもたせるべきではないのだ。

「人権」は多くの場合他の人の「人権」と接している。
システムの偏りはある人の「人権の実現」を促進することによって、他の人の「人権の実現」を妨げる可能性がある。
それは「お互いがお互いの人権を尊重し尊重された状態」ではない。

話し合いの中で妥協点を探った結果、辿り着いた結果が互いの人権の実現をある程度ずつ制限するものであった場合は仕方ないが、妥協点を探ること無く、ある人の「人権の実現」だけが尊重されることは間違っている。

【蛇足】例えば棄権したオタクの意見なんて誰も聞かない

「若者の意見が反映されやすくするために若者の票を増やす」

それが通ったとしても、上で書いたように反映されやすくなるのは「選挙に行く若者」の意見であって、棄権した若者の声など無視されることは変わらない。
選挙に行く若者たちが「オタク的な書物は規制すべき」と主張した場合、規制の影響を受ける若いオタクたちが何らかの形で参政権を行使し、否決に持っていく、もしくはせめて妥協点を探る努力をしなければ、いかに彼らが「若者」であってもオタク的な書物は規制されるだろう。

民主主義は為政者と民が同一の存在だから人権の実現のために機能する。
同一の存在でないなら政治に取り組む人間の人権の実現のためにしか機能しない。

(もちろん「若者」は他のキーワードに置き換え可能)

自ら参政権を行使しない人間は、かつて「お上の情け」を期待しつつ為政者に隷属していた人々と変わらない。


選挙の出口調査の結果からまるで「若者」vs「老人」の戦いだったかの様に語られる今回の住民選挙だが、じゃあ今回「反対票を入れた若者」や「賛成票を入れた老人」はなんだったのか。
彼らは存在しなかったのか?
そんなわけはない。

「賛成派の若者が棄権しなければ勝てた」ということを書いた私が言うのも何だけど。

決まったのは「大阪都構想の否決」であって、大阪自体が抱える問題が解決したわけじゃない。

今回の多数派だったからと言って「賛成派の老人」の声だけを重視すれば問題は益々悪化するのは目に見えている。

老人も中年も若者も、男性も女性も、反対派はもちろん賛成派だった人々をも巻き込んで妥協点を探りながら進めるべきなのだ。
その先にしか比較的「皆が自由に幸せに平和に暮らせる状態」はないのだから。