一方的な謝罪は攻撃と変わらない

中学時代、デブ女に酷い悪口を遊び感覚で言っていた。娘に胸を張れる父親になるべく、謝罪したい - 子育てちゃんねる

いじめの加害者が、大人になってから、自分たちのいじめの被害者を見つけてわざわざその前に現れて謝罪して粗品を渡して無かったことにしたいという2chのまとめを読んで、いじめられた当時の想いが蘇って思わずやや激しい内容でブコメしたのだが、

中学時代、デブ女に酷い悪口を遊び感覚で言っていた。娘に胸を張れる父親になるべく、謝罪したい - 子育てちゃんねる

私をいじめた連中は二度と目の前に現れないで欲しいしましてや謝罪なんか微塵もして欲しくない。許す気は全くない。一秒でも奴らのために使いたくない。謝罪したいなら目に触れない所で消えて無くなって欲しい。

2015/04/05 00:37

もし仮に、かつてのいじめっ子共が件の記事の発言主のように、私の居所を見つけ謝罪したいと現れたらどうするだろう、と考えてみた。

ある元いじめられっ子が元いじめっ子を許す理由(仮)

たぶん、許してしまうだろうと思う。
それもお愛想笑いとありったけの社交辞令をぶち込んで。
そして全てが終わったら鬱になるだろうと思う。

もちろんこれは本当の意味で相手の謝罪を受け入れて許しているわけではない。
どのみち彼らが求めているのは私の心からの許しではない。
「俺はいじめに関わった過去に向き合い、きちんとけじめを付けた。」と思えることだろう。
(このへんは件の記事の125が書いている言葉にも現れている)

そこには私の気持ちなんて微塵もない。一方的な暴力や迫害が、一方的な想いの押し付けなっているだけで構造は全く変わらない。
否、むしろ社会的に良しとされていることを持ち出してるだけ余計に質が悪い。
そこで拒絶すれば悪いのはこちらになるからだ。
受けるダメージを最小化するには、その一方的な謝罪を受け入れとっとと目の前から居なくなってくれよう誘導するのが一番だ。エネルギーの浪費も防げる。

だから謝罪を受け入れる。
そして二度と関わらない。近づかない。心の底では絶対に許さない。

謝罪は一緒に歩む者との未来のためのもの

「どうしても許せないと言うなら、きちんとその想いを相手に伝えて話し合うべきじゃないか。口先だけの許しなんて卑怯じゃないか。」という人もあるいはいるかもしれない。
それはその通りで、それが正攻法なのはわかってる。

でも、だ、

一度過ぎ去った時間は戻せない。一度行われた行為は無かったことには出来ない。
だから話し合いや、謝罪とそれに対する許しは、過去を変えるために行われるのではなく、過去の出来事を踏まえてよりよい未来を構築するために行われるものだ。

だが、相手が自分の未来に関わらない場合は?

話し合いや謝罪と許し、それぞれに関わる(精神面含めた)コストと、それによるメリットが釣り合わないなら、それをする価値はきわめて低くなる。

閉ざされた環境でその相手と隣り合って生きていくなら、話し合いも謝罪も許しも必須だ。
一緒に日々を暮らす相手と憎しみ合う位なら、どれだけしんどくても話し合いを持ち、相手の気持を汲み取り自分の行動や考え方や価値観を見直し、心から謝罪し、一度許されなくても諦めずに反省し変わろうとする努力を続けることは十分に見合うし、相手が謝罪してきたことを受け入れることにも十二分に価値がある。

でも、すでに離れ、二度と関わらないでも何も困らない状況下で、相手の一方的な行為にきちんと向き合ったり、ましてやこちらからそれをうながしたりして余計なコストを払う価値など微塵もない。

それをすることで相手に不必要な負担を強いる行為は攻撃と呼んで差し支えないと思う。
ならば、いじめた側の「一方的な謝罪」は攻撃で、攻撃してくるものは敵だ。

そう、

いじめた側は自分が反省し謝罪を検討した段階ですでに自分はいじめられた側の敵ではなく、むしろ味方くらいの気持ちでいるが、いじめられた側にとってはそいつはどこまでもいつまでも敵なのだ。

今の不平等・不公平を自分の罪を認識する勇気

「じゃあどうすればいいんだ?」と言う声が聞こえてきそうだが、その答えがすんなり出せるなら、世界はもっと平和だ。
私自身よい答えは思いつかない。

d.hatena.ne.jp

この記事に対し

東浩紀氏がアイヌ民族に関して無知をさらけ出している件 - Danas je lep dan.

なんともはや。マイノリティの問題はマイノリティの人達が自分たちの生活行動を十分に自己決定できないことにあり、その点から言えばマジョリティ側の「こうしたらいい」は妨害でしか無いと思う。

2015/04/06 11:53

ブコメしたのだが、これにも通じる話だと思う。

マイノリティを巡る問題は、マイノリティが己の存在・生命・言動・思想を、様々な要因によって十分に自己決定できないことにあるのだと思う。そしてそうした場合、マジョリティ側は意識せずマイノリティの自己決定の妨害を行っている場合が多いように思う。

そしてその問題が言挙げされた時、マジョリティに属する人々の一部は、妨害・攻撃を行っている個人や団体(自分たちの一部)を批判し攻撃し、謝罪と償いをマイノリティに代わって要求したりする。
あるいは、マイノリティに対し「こうすべき」「こうしよう」という案や道を示し、あるいは、マイノリティに特権・特典を付与しようとする。
だがそれらが当のマイノリティの意思を全く無視した上に行われているならば、結局マイノリティの自己決定を妨害していることに変わりない。
そして彼らの多くはそのことに気が付けない。

極論を言えば、ほんとうの意味でマイノリティの問題を解決したいと考えるなら、マジョリティ側にはマイノリティの意思を最大限尊重する以外の選択肢はないと思う。
最大限だ。
対話は対等な立場の人間同士でしか成立しない。
マジョリティは今の状態が0だと思いたがるが、問題が起きている時点ですでに両者の間は対等ではない。
対等でない以上、対等と思われる所まで移行しなければ有効な対話は出来ない。
だから最大限。

いじめた側といじめられた側の問題に戻せば、いじめた側がいじめられた側が対等と思われる所まで相手に敬意を払い意思を尊重して、あるいはいじめられた側が自分と同じだけの苦しみをいじめた側が受けたと思えた時、初めて対話が成り立つ。
謝罪やら償いはその後の話だ。

マイノリティとマジョリティ、被害者と加害者、いじめられた側といじめた側、これらは必ずしも一致するものではないけれど、一方的な力関係という点では共通していると思う。
そして、それぞれにおいて、前者はその一方的な力関係を認識しているが、後者はそのことを認識できず、むしろ現状を平等・対等・公平だと認識している場合が多いのも、また、共通している。

この両者のギャップを埋めることはどうしたら出来るのか。
少なくとも前者の人々が歩み寄ることではないと思う。
後者の人々が、自らの拠って立つ現状の認識を改めていく作業、すでに現状が不平等・不公平であることを認識しようと努力すること必要なのだろう。

そういう意味で言えば、色々問題はあるとはいえ件の記事の125が反省をしようと努力したことは一応評価すべきことではあるのだろう。
途中で自分に都合の良いレスばかり味方と考えてスレに登場しなくなってしまったのは残念だが、これをきっかけに自分たちと被害者との一方的な力関係を認識し、本当の意味で自分が行った罪を反省し、世の中のそうした構造に目を向け、そうした構造に拠って迫害され傷つけられている人々のために出来る事を模索してくれたらと願う。
(もちろん、自分の快楽のために「謝罪の強行」を行って被害者を益々傷つけるような真似はしないでいて欲しい。)

もし私が当の被害者だったら一生恨みを忘れないけどね。