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信教の自由は何からの自由か?

「自由」は誰によって保証されるのか?
と言う問題への答えが、その自由はどこまで認められるかを規定する、と思う。

例えば、ある宗教団体に属する人間が、その信仰の下にある行為を他人に強要し、それに対して非難を受けると「信教の自由の侵害だ」と宣うという事件が時々ある。
信者が自ら信じる宗教を広めるため信者でない人を勧誘するような場面でよく起きる。
多くの宗教では勧誘を行い信者を増やすことはその宗教の元となる真理を広める行為であるとされ推奨される場合が多い。
宗派の教義やその組織・構成員により差は大きいが、少々強引な方法を採っても結果的にはその人のためになるのだから良いとする組織もある。

この「自らの信じる宗教に従い他の人を無理矢理勧誘すること」は信教の自由として認められるべきか否か?

少なくとも日本国憲法の下では、これは信教の自由に含まれないと考えることが出来る。

日本国憲法 第20条【信教の自由】
 第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、 又は政治上の権力を行使してはならない。

 第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

引用した通り、憲法の保証する信教の自由はあくまで「国の権力から強制されること無く、自らが信ずる宗教を自ら選び参加することができる自由」だからだ。

日本国内において自らがある宗教宗派を選んだ。これは自由。
その教義を学びそれに従って生きる。これも自由。
ではその教義に従って他の人を勧誘することも自由だろうか?
それを望まない人に対してであれば、それは認められない。第2項に反している。
(もちろん相手が望んでのことであれば全く問題ない)


ではミッション系の大学がその授業の一環に礼拝への参加を義務付け、出ない者は卒業できなくすることは信教の自由に反することだろうか。

教育基本法の第一章第十五条には

(宗教教育)
第十五条  宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。
2  国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

という表記がある。
この規定は私学の場合は当てはまらない。
その学校が創立の基盤を特定の宗教に置き、その宗教活動の一環として教育活動を行っているのだとしたら、それを踏まえて入学するかどうかを選択をすべきであり、明示されていてそこを選んだのだとしたら、上に書いた「望まずに入ってきた」とは言えないだろうと思う。
その特定宗教の私学に入ることで学校に依る宗教活動を受けることが不快であるというのであれば、公立の学校を目指すべきであるだろう。

例えば「私の学力ではここにしか入れない。しかし学校から宗教教育を強制的に受けるのは不愉快であり、私の信教の自由を阻害する行為であるから宗教教育を止めさせる」のは、心情的にはわかるが、もしそれが通れば、逆に学校側の信教の自由を阻害することになる。
この場合、学校側の信教の自由と生徒側の信教の自由は当価値であり、あとはその摺り合わせ、もしくは選択の問題になる。


繰り返すが、日本においては国・公は特定の宗教に偏ることを禁止されている。
それによって「国・公から個人が信教を強制されない・信教を自ら選択できる自由」が保証されているのだ。
国・公 対 個人ではない場面、個人対個人の場面における「信教の自由」は当価値であり、お互いに尊重されるべき性質のもので、相手の自由の尊重を欠いた一方的な自由は認められない。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

日本国憲法第十二条で憲法が保証する自由は濫用してはならないとある。
信教の自由もまたしかり。
お互いがお互いの自由を尊重し守ろうとする努力を怠れば、お互いの自由を阻害する状況は簡単に現れるのだ。


神話や建国記述「間違ってない」「感動した」 一宮市教委の注意で削除の中学校長ブログに激励(1/6ページ) - 産経ニュース

この記事に対し私は、

一宮市教委の注意で削除の中学校長ブログ、激励相次ぐ 神話や建国記述「間違ってない」(1/6ページ) - 産経ニュース

日本書紀にある白村江の戦いは敗戦に数えないのか。ともあれ、個人のブログなら消すまでもない内容だけど学校の公式サイトに載せるには不適当だと思う。校長個人のものではないから。(私学なら別)

2015/02/22 20:41

ブコメしたが、学校のサイトでは不適当と書いたのは、あの文章を書く行為は神道の考え方をベースにした宗教活動の一環であると私が感じたからだ。
たとえば

日本の建国は、今から2675年前の紀元前660年2月11日、初代、神武天皇が即位した日が始まりです。

という断言や、

この話は神話であり、作り話であるという説もあります。

と「神話や作り話ではないこと」が前提の言い回しをしている点からそう感じたのだが、個人のサイトに書いたり、この学校が元々神道系の宗教団体によって創設された学校であったなら、それこそ信教の自由であり表現の自由の行使だから問題無いと私は考える。

でも、これは学校のサイトで校長としての立場で書かれたものだ。
これはつまり公立の学校がそのサイトを使って宗教活動に類する行為を行ったことになり憲法第20条第3項に違反する。

もちろん、この文章を以って宗教活動とは考えない人もいるだろうから議論の余地はあると思う。
私としては、学校のサイトに載せるならもっとオブラートにくるむべきだったと思う。
キリスト教徒でなくても聖書のエピソードを引っ張ってきたり、他国の神話を持ってきてコラムを書く人はいくらでもいる。
上で書いたような断言口調が無ければ、ただの「日本神話に出てきたちょっと良い話と歴史上のちょっと良い話を持ってきたちょっと*1浅墓だけど当たり障りないコラム」には十分仕上がっただろう。

そうした推敲を行わなかった点で、非難され取り下げることになったのは仕方ないと思う。
日本の信教の自由や表現の自由は国や公からの自由だ。
国や公が国民に対して宗教行為をする自由だけは認めていないのだから。

*1:「革命で日本人同士が殺しあって民主主義をつくったわけでもありません。」とか「古代の昔から、日本という国は、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた穏やかな民主主義精神に富んだ国家」とかの部分かな。いい話にしたかったのだと思うけど、王が民のために力を尽くすべきというスタイルは理想的な国家かも知れないが民主主義ではない。この辺の言葉のセンスが浅墓だと思う。