「正しいイスラム教」という決めつけは常に正しくない


正しいイスラムほど攻撃的なのかも - 底辺から見ると世界はこう見えます

これ、私も陥りがちな思考なのだが、

ある経典、教義があった時、それをどう解釈し、どう行動に移すかは、実際はそれを受け止めた人間に任せられている。
どんなに厳格な宗教においてもそうだ。

それを防ぎ、教祖が自分の考えたことを厳密に守らせようとしたら、信者、教徒の全ての行動を監視し、修正を行う必要が出てくる。
カルト集団のリンチ殺人などは、こうした取り組みの先にあることだ。
だからもちろん、こうした流れがイスラム教に全くないとは言えない。現にダーイッシュの人々はイスラムの神の名の下に他宗教の人間を処刑したりしているわけだし。

だが、だ、

これはなにもイスラム教だけの話でないのは世界史をある程度学んだ人ならすぐ思いつくことだと思う。
地下鉄サリンや松本サリン事件を起こした仏教系のオウム真理教の一連の事件では29人が亡くなり6000人近くは負傷した。
アフリカ・ウガンダキリスト教系の新興宗教「神の十戒復古運動」では924人が集団自殺&殺害の犠牲になった。
それらの事件だって、宗教の教義に対する彼ら自身なりの解釈がなければ、そうした死傷者はでなかったかもしれない。

同じように、激しい言葉を含むクルアーンの、どこをより重視するかは実際にはそれを解釈する人に任せられている。
もちろん各人各様では困るからイスラム法を研究している人達が最適解と言える解釈を提示し、イスラム法を元に判断すべき場面ではそれを元に判断が行われている。でもそれは絶対ではない。

少なくとも、クルアーンイスラム法学者と違う解釈をしたからといって、天から雷が飛んでそのものを焼き尽くしてしまうようなことはほぼ起こらない。
起こらないからダーイッシュもいれば、西欧社会の中で暮らすムスリムも同時に存在し得るのだ。


ここは宗教の問題を考える時、気をつけなければならない重要なポイントの一つだと私は思う。

ある宗教、宗派の経典、教義、指導者の言葉…それらによって、その宗教宗派が規定される。
それを知ることは、それ以外の宗教宗派に属する人間にとっても価値があると思う。
だが、その宗教・宗派に属する人はその独自性を全て確固のものとして備えているなんてことがあるわけない。
それほど、ある宗教の教義とその信者が、常に等質なものであるなら、何故この世にこれほど多くの宗派が存在するのか。それは、各個人に最終的な判断が任せられているからに他ならないと思う。

日本で言えば、浄土真宗の親鸞は念仏の絶対性…と言うかとにかく完全に阿弥陀様に委ねてしまうことを主張し自ら実践したというが、それを以って、現代において実家がたまたま浄土真宗だった人も含め浄土真宗の人間はみんなが阿弥陀様に全てを委ねてしまうことを人生の最優先事項と考える人間だと主張するのが噴飯物であるのと一緒だ。
クルアーンの中にある過激な表現を以って、「正しいイスラム教はこういうものだ、正しいキリスト教徒とはこういうことを考えている人々だ」と主張するのは、それと同列のものだと思うがどうか?

ある宗教・宗派を調べる時は、その教義・指導者の言動と、実際の信者の考え方・捉え方、そして宗教行事や宗教団体としての行動は、それぞれ切り分けて考えるべきだと思う。


誤解の無いように。
クルアーンに他宗教信者に対する過酷な記述があるのは確かだし、ダーイッシュの人々はそれに従って行動している様だ。が、だからと言って、今のムスリムの全ての人がそれを厳守することを「正しいイスラム教」と考えている…なんていうことはないと思う、ということを言いたいのだ。

ある人が「正しい…とは●●だ」といった時、その●●は常にあくまで一例に過ぎない。
そこにある人の価値判断(正しい/正しくない)が挟まる限り、絶対はあり得ない。
その多様性を認めようとしなければ、その先には不毛な争いしかない。

(ただ一方で、不毛な争いに蜜の味を感じる人も多いのだ。
多様な人々を一々見ていくより、明確な敵を作り出した方が切り捨てる快感が大きいから…。)