正義と自由は本来他人

トールキン指輪物語は正義と悪の戦いを描いたが、同じファンタジーでも、マイケル・ムアコックは法と混沌の戦いを描いた。
この二つ、子供の頃にはあまり差がわからなかった。正確に言うと前者はわかるが、後者はピンとこない感じだった。
でもきっと法とか秩序とかって正義の側だろうと思っていた。だって法を犯すのは犯罪者で犯罪者は悪い人だからと。

なんとも素直な時代もあったものだ。

大人になるにつれ、法には良い法もあれば悪い法もあること、正義は人によって違うことなどを知る。
そうすると自然にバランスを取ることが一番大事であると思う様になった。そしてそれが一番難しいこともわかってきた。

私たちは憲法によって様々な自由を権利として保障されている。
ありがたいことにそれは生まれる前からそうで、私たちはわざわざ自由を得るために戦う必要は、まあ無い。
“まあ”とぼかしたのは、必ずしも全ての場面であらゆる国民が相手の自由を尊重してくれるとは限らない、否、むしろ「自由」なんて言葉を引っ張り出す時は、大概それを相争っている時だと思っているからだ。
先ほどの秩序と混沌で言うなら、自由は混沌に属するものだ。完全な自由を想定した場合、そこには秩序は存在し得ない。

一方「正義」は秩序と仲が良い。
正義とは「正しい義」だ。
「正しい」と「間違い」はどうやって区別されるのか。区別するためのルールによってだ。正義とはそのルールに沿って行動することだ。
だから「正義」と言った場合そこには秩序を求める心がセットになっている。

で、表題の話だ。
自由主義の世界に住む人間にとって自由であることは正義であるとされる。
だが、自由であることを正しいとするなら不自由であることは間違ってることになる。
敢えて不自由を受け入れた人はどうだろうか。その人は自らの自由に基づき不自由を受け入れたわけだが、それを他者に強要したら間違いとされる。だが、逆に不自由に甘んじている人を不自由から解き放つと、往々にしてそれは正義と見なされる。
これは矛盾してないか?

自由の行き着く果ては混沌であり、正義の行き着く果ては秩序だ。この二つは真逆のベクトルを持つものだ。
自由は正義を、正義は自由を否定するものだ。
でもどちらも、人類が生存し続けていくために生み出した知恵のかたまりで、現代社会においてはこれらを無視することはできない。

「自由は正義」ではない。
「自由と正義」の反発しあう性質を理解しながらバランスを取って活用していくべきものだと、私は思う。
自由を語るなら、その社会その人が受け入れられる自由の限界を考えるべき(完全な自由の中で社会生活など成立しない)だし、正義を語るなら、誰の何のための正義なのかを考えるべきだ。
そして、その自由の中で正義とされること、その正義の中で自由とされることを明確にし、必要に応じてそれを修正していくことが、社会を存続維持し、個人が平和で幸せに暮らすために必要なことなんだと思う。

…これって、典型的な日本の和の考え方のような気もする。これはこれで偏ってるんだろうな。