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通過できない通過儀礼は儀礼じゃない

ジジはなぜ言葉を失ったままなのか―『魔女の宅急便』(宮崎駿) - Devil’s Own −残骸Calling2−

読んでて非常に同感の記事だったのだが、ブコメに書き切れなかったことをこちらに書く。
ブコメには、

ジジはなぜ言葉を失ったままなのか―『魔女の宅急便』(宮崎駿) - Devil’s Own −残骸Calling2−

良記事。ジジの声の変遷についての解釈は新鮮。幻想の世界と一体の状態→現実とのギャップの認識→現実の世界及び自分の肯定は通過儀礼そのもの。むしろ最後の肯定が無ければ儀礼にならないので甘さは不可欠。

2015/01/13 11:01

と書いたのだが、最後の所が言い足りない。

通過儀礼とは元々成人するための儀礼であり、その社会の構成員となるためには避ける事が出来ない試練だったわけで、実は試練そのものが意味があるのではなく、共通の試練をくぐり抜けたという経験こそが重要なので、通過することが困難な試練は通過儀礼には成り得ないのではないか、と思うのだ。

強力なウィルス、宿主を即刻秒殺するようなウィルスと毒性がそこそこ弱いウィルスがあったら、後者の方が蔓延するだろう。そこそこ弱ければ、宿主の中で十分仲間を増やしそれを宿主に撒き散らしてもらいながら、いわば共生することが出来るからだ。前者だったら自分の居場所を一瞬で破壊しそれとともに自滅してしまうだろう。

通過儀礼の目的はその社会の構成員を増やし、社会を存続させることにあるので、あまり簡単すぎて本人に体験として残らないのでは困るが、しんどい思いはするが大概は突破できる程度のものである必要がある。
通過儀礼で社会の構成員予備軍が死滅したんでは本末転倒だ。


これは、通過儀礼的要素を持つ作品でも言えることだと思う。

よく通過儀礼的物語の例として挙げられるギリシャ神話の「ミノスの迷宮」の話では、ミノタウロスが棲む迷宮を青年テセウスが脱出する場面があるが、これがクレタ島に元々あった通過儀礼から来ているのではと言われている。
この物語で、テセウスと恋したアリアドネが糸を一巻き渡し、テセウスはそれを辿ることで脱出を果たす。
このアリアドネの糸、恋の結果として描かれているわけだが、通過儀礼として見るとここまでセットになっているのではないかとも感じる。
入ったものがミノタウロスによって必ず死んでしまうなら、通過儀礼としては成り立たない。
テセウスはその地で育った者ではない、ミノスの迷宮についてはよく知らない、だから特例としてアリアドネによるサポートが許されたということがあったのではないだろうか。

(ただこの神話、クレタ島と脱出した後、テセウスアリアドネは結婚したという説もあるが、アリアドネが酒と酩酊の神デュオニュソスにさらわれてその子を産んだとか、アルテミスに矢で射られたのと悲劇的な結果になるのだが、それはさておき)


こうした視点で見ると、魔女の宅急便の各所に出てくる人々の優しさは(記事主は甘さとも書いているが)いわばこの通過儀礼通過儀礼たらしめるための要素だと言えるのではないか。
逆に言えば「家族との縁を断ち切り初めて一人で生活を始めた町で人々の冷たさや自分の価値の低さに絶望し、ボロボロの中で死んでいく…」という絶望的な話の方がある意味リアルだろうけど、その中には通過儀礼的な要素は存在しないと言っていい。行ったきりのミノスの迷宮だ。
居心地の良い自分の頭の中の世界(象徴はジジ)と才能を持った自分自身(象徴は母が祈りを込めた箒)を失い、現実の世界及び自分に打ちのめされながら、また幼い自分の世界(ジジがしゃべり実家で父母と生きる)に戻るのではなく、現実を受け入れむしろ積極的に肯定するきっかけとして、通過儀礼を通過するためのアリアドネの糸として、オソノさんやウルスラ、お婆さんの優しさが機能していると言えるのでは無いか。


こうした優しさに触れることが出来なかった場合、キキは自分の世界に引きこもるか、さもなくば自分の力だけで世界と対峙することになる。それもまた大人の姿の一つだ。
が、社会との対峙は、社会の構成員となるということではない。
社会と対峙し、社会の構成員にならない・なれないなら、その人は通過儀礼を通過してはいない。
あの優しさ、甘さがあればこそ、あの物語は通過儀礼的な物語として成立しているということもできるのではないか。


余談だが、通過儀礼を通過できなかった人の物語の一つがハードボイルド物だと思うのだが、それを書き出すと長くなるので、今日はこの辺で。