「努力」はするもの、させるものにあらず。

「努力」云々の話が流行っていて、幾つかの記事をブクマしたりしたが、少し書きたしたい。

ここ数日表に出て来る「努力」ネタを見ると概ね、「努力したものがその努力に応じて報われるべき」という点は共通しているように感じる。
ただ、この「努力」と言う言葉に含まれるニュアンスが各人各様な為、当然話がズレて盛り上がっているのだと思う。

具体的に思いついたことを列挙すれば、

「成果につながらない努力を努力と認めるかどうか」
「その成果は他人が判断できる形で出たものだけを指すのか否か」
「というか他人から評価されない努力は努力に含まれるのか」
「自分の欲望を源とする行為は努力に含まれるのか」
「苦痛が伴わない行為は努力に含まれるのか」
「一般に好ましいと思われる行為を努力として認めるのか」

前三つは努力と結果に対する評価機構の問題、後三つは努力と結果の質に関する問題と言えるかな。
これらがそろわない状態で、自分の「努力」を以て「「努力」が報われないのはおかしい」と言い合ってる状況と言うか。
論争をするならまずお互いのキーワードの意味を揃えることが重要なのだけど、努力という言葉は広く使われまくっててパターンが決まってるように見えるから、ついみんな、自分の努力は他人の努力と全く同じだと考えてしまいがち。
バベルの塔の呪いですな。

私は、努力とは本来、個人が自分の意志に基づき感情や肉体の反発と戦いながら新しい状態にシフトしようとする行為全てを指すと考える。
上の設問で言うなら、誰かに命じられる命じられないに関わらず、評価されるされないに関わらず、自分がすべきと考えたことを、苦痛や不安を受け入れながら行い、その結果行う前と物の見方、感じ方、自分や周りの状態が変わる、そんな行為は全て努力の範疇と考えて良いと考えている。

例えば、好きなゲームを好きなだけやるのは努力じゃないが、やる度に何か発見がありそれによって何かが変わるならそれは努力だ。
勉強をする運動をする。それが自分の中で積み重なるなら努力だが、苦痛だけを感じてただ漫然とやるならそれは努力ではない。
結果的に何も見つけられなかった。それを受け入れるなら「見つけられなかった」と言う成果が残るから努力だ。
誰かが用意した物を用意された手順で黙々とやった。何かすごい成果が出たらしい。でも自分の心に頭に何も残らないならそれは努力じゃない。
病気で寝たきりで、瞼しか動かせない人がいる。彼は病気と闘い生きる時間を積み上げてる、だから彼の人生は努力の人生だ。五体満足で生きる意味が分からないと漫然と過ごす、そこに努力はない。

自分の変化が最重要なので、その行為の結果、褒められた表彰された良い地位収入を得られた場合、あるいは貶された差別された攻撃された場合、それによる変化も自分の変化に含まれるから努力の一要素とはなるが、「他人から評価されない」事を以て努力の価値が減ずることはないと考える。


この努力の解釈にはもちろん問題がある。

まず、「倫理的にダメな行為でも、それによってその人の中に新しい発見があるならそれは努力」という事がいえる点。
殺人鬼が殺し方を研究するとか、役人が生活保護申請者をとにかく減らすために追い払い方を研究するとかも努力なのか。
ある人から見て倫理的に問題な行為でも別な視点から見れば正しい行為だったりする。
戦場で効率よく敵を殲滅すること、社会補償制度を守るため自力でいけそうな人は自力で頑張ってもらうことは、それを良しとする人からすれば正しい行為だ。
「正しくないなら努力じゃない」とすると、ある人の行為が、見る人によって努力かそうでないか変わってしまう。
これはおかしいと思う。
いうなれば「社会的に間違った努力」というべきで、これを「そんなの努力じゃない」と言ったところで例えば再発防止などには役に立たず何も解決しない。問題なのはなぜその人が間違った努力に邁進してしまったかを考えるべきなのだ…。
わき道にそれた。

もう一つ、「他者の評価が二の次なら、他者から報われることも二の次となる。この解釈だと「報われる」は極めて個人の気分的なものしかあり得ないではないか?」という点。
そうだと思う。
私が努力の成果を個人の変化と考えるのはそれであれば必ず報われるからだ。
自分が努力し、その結果何かを得るもしくは何も得ないと言う結果を得る。これが「報われる」事の最小単位だと思う。

それ以上様々な成果を求めると、周りの状況や人々の評価が関係してくる。それはコントロールできない。
コントロールできないことを成果として求めれば当然「報われない」場合が出てくる。
努力が必ず報われる為には必ず得られることのみをまず成果と考えるべきなのだ。


だが、だ、


みんな、コントロールできないからこそ「努力は報われるべき」と願うのだろうと思う。
沢山書かれている努力にまつわる文章の多くが、ここで共通しているのは、まさにそれが個人ではコントロールできないからなんだと思う。
ある人は今の雇用状況が努力が報われない社会の現況だという、ある人は生きるだけで精一杯の努力が必要な人もいてそういう人も報われてほしいと願う、ある人は努力は才能で出来る人と出来ない人がいるという。

その人たちの言う「努力」が間違ってて私の「努力」の解釈が正しい解釈だなどというつもりはないし他人に強制するつもりもない。
「努力はするもの、させるものにあらず。」だから。
が、こういう解釈もしようと思えばできるということが、誰かの暇つぶしになればと思って書いた。