自業自得

某アナウンサーの「暴飲暴食で果ての人工透析は自業自得」発言からの展開がなかなかに「自業自得」の典型パターンを踏んでいて非常に興味深い。

ところで「自業自得」ってなんだろう。

業とはその人が生まれ持ったもの、行いや思い、その結果などを総称したもので、自業自得とは、「己が持って生まれたもの、自分の行いや思い、その結果起きたこと、それらの影響は必ず自分が受け止めることになるよ」という、ごくごく当たり前の話を表す言葉だ。

だから、この意味合いにおいては「人工透析は自業自得」は間違いではない。

 

が、ここで気をつけなくてはならないのは、一般的に「自業自得」という言葉は「持って生まれたもの」と「その結果生じたもの」を抜かし、“「自分が行ったことや思ったこと」の結果だけを受け止めることになる”という意味で定着しているという点だ。

本来なら、親から地域から国から時代から受け継いだ業、他人の思った行った行為の影響としての業も考慮すべきなのに、これらの影響を想定してしまうと、話がとてもわかりづらくなるからなのだろうと思う。

例えば、人を人とも思わない経営者によるブラック企業が儲かるのだって自業自得だし、ナチス政権化のドイツで生まれたユダヤ人がそれゆえに収容所に入れられ虐殺されるのも自業自得だ…と、こういう文脈で使うと違和感を感じるくらい、「自業自得」は「自分が思い行った結果」くらいの意味で定着している。

 

もちろん、件のアナウンサーは本来の意味で自業自得という言葉を使ってはいない。だから、彼の用法は二重の意味で間違っている。

 

一つは、自業を「自分の思考や言説に限定するもの」と捉えて使うなら、自分の思考や言説の埒外のこと、生まれ持った業や他者の業の影響による業の部分の責任まで追わせるのは間違っていると言う点で。

もう一つは、本来の意味で言うなら、ありとあらゆることが自業自得であるので、自業自得を理由にある人は死ぬべきと言うのは、元々の自業を超える自得を求めてるという点で。

 

件のアナウンサーを巡るここのところの展開は、正に自分が行ったことと、それを元にした他人の業の影響によって引き起こされているわけで、たいへん興味深い。

結局、今回の事態を引き起こした大きな原因は「自分で行ったことがその人に返ってくる」と言う意味で「自業自得」を単純化して理解し、その浅い解釈で進めてしまった点に有る様に思う。

 

自業自得だからこそ、人は自業を見つめ自得を味わい学ぶ必要が有るのだ。学び考え行うことが必ずしも人を幸せにすることはない。

だからと言ってそれを止めるなら、当然その業も自得することになる。

結局のところ、善業とか悪業とかは狭い人間の了見無いでの話で、良かれ悪しかれ業は返ってくる。

そのことを意識しながら、それでもなお最善を尽くして生きるべきなんだと思うし、そうして受けた自業はきちんと自得すべきなんだろうと思う。

彼は自得できるのだろうか?

理想が無い改革はただの暴力

bylines.news.yahoo.co.jp

この記事に対し

配偶者控除の廃止を「専業主婦否定」に結び付けてはいけない(大塚玲子) - 個人 - Yahoo!ニュース

良記事。/配偶者控除廃止を短絡的に「専業主婦を前提にした社会の終焉」として歓迎する向きが多いが単に「配偶者控除内で働いていた収入の低い人からも税金を取る」だけの話。意識改革が伴わないならただの増税

2016/09/28 11:23

ブコメしたのだが、補足。

件の記事の主張は「配偶者控除の切り捨てを専業主婦否定につなげてはいけない」ということで、この動きを「専業主婦vs共働き」の文脈で語るべきではないということだと思う。
氏は普段「専業主婦ありきの機構が様々な弊害を生んでいる」と主張している方だが、それは「専業主婦vs共働き」ではなく「専業主婦&共働き&片親&etcが共存する現状を反映させるべき」という話であり、件の記事の主張もその流れから出ている。

私も「専業主婦&共働き&片親&etcが共存する現状を反映させるべき」と考える。
ただ、今回の「配偶者控除の廃止」を「専業主婦を前提にした世界への改革」と語ることには違和感を感じる。

配偶者控除の廃止は増税

今回の廃止は「今まで配偶者控除によって税金を免除されてきた人々からも税金を取る」という話だ。
確かに「配偶者を持ってる人間にメリットがある仕組みの破壊」→「税制上は配偶者の有る無しで区別されない」ではある。

でも、配偶者控除内で働くことってそんなに「社会悪」なんだろうか?

ある夫婦がいる。貧困に苦しんでおり一人の稼ぎではどうにもならないから二人とも働く。
目の前に「配偶者控除」という取られる税金を減らせる施策がある。
配偶者控除を利用し、労働量を制限された方の配偶者が家事を多め分担する。
そうして少しでも夫婦の労働対利益・労働力のパフォーマンスを高めようとする。
これはごく当然の心理じゃなかろうか。

根っこの部分「貧困に苦しんでいて」が無ければどうだろう。それでも彼らは配偶者控除をぎりぎりまで使うだろう。
では「配偶者控除を廃止」してこの夫婦の労働力のパフォーマンスは高まるのだろうか。
この夫婦においては、配偶者の労働時間を増やさなければ、取られる税金が増える分パフォーマンスはむしろ悪くなる。当然家事の分担の見直しは必要になる。家事の総量が変わらないなら、互いの外での労働時間の調整が必要になるだろう。

社会の総体としては労働力のパフォーマンスが上がる可能性はある。だって、今までよりも労働力が増える可能性が高いし、配偶者控除内で働いていた人からも税収が得られるのだから。
だがこの夫婦にとっては?

「社会の総体の労働力のパフォーマンスが上がり税収が上がれば、国民への分配も出来るようになる。」と主張する人もいるだろう。
では今回の改革でそうした動き、つまり収入が低い人たちをフォローするようななにかがあったのだろうか?
無いのであれば、今回のこれは夫婦にとってはただの増税でしかない。

「その分働けば良いじゃないか」という人も多いだろう。
働ける人はいい。
でも実際には貧困状態にある人の多くは余分に働く余地など無い場合も多い。
仕事にしたってそうだ。
働かなければならない人が増えれば当然買い手市場になる。時給が低くても働き手がつく様になれば、働く側の労働力のパフォーマンスはどんどん悪化するだろう。ここでも得をするのは社会の側。

例えば片親の家庭ではどうだろう。特に何も変わらない。
十分な収入が有って専業主婦を出来ていた家庭ではどうだろう。税金は増えるだろうが大筋は変わらない。
大きなデメリットを受けるのは配偶者控除のメリットによって生活を維持できていた家庭だ。
今回の改革は、この改革だけ取ってみるなら「収入が低いが配偶者控除で税金を押さえて何とか家計を維持できていた家庭」をターゲットにその破壊を目指す施策の様に、私には感じられる。

(まあ、私がまさにそういう状況にあるから、過敏に感じているのだと思うが。)
(社会全体としてみた場合はメリットがあるとは思うのだ。だけど、それを重視できるほどの余裕は私には無いのだ。)

理想が無い改革はただの暴力

というように私は今回の配偶者控除の廃止を否定的に見ている。
やるなら低収入者層(片親、共働き、独身者、経済的に配偶者控除内で働くことを余儀なくされていた層も含め)へのフォローをセットにすべきだったと思う。

これは「専業主婦を前提にした世界への改革」の第一歩であるのは確かだろう。
これによって専業主婦であることがメリットで無くなれば、配偶者控除のメリットを受けていた人々は働き方を変える必要が出てくる。
当然、企業主などの方でもパートタイマーへの対応を変えていくことになるだろう。
でも、今現在頑としてある時給の差、社会的風潮は一朝一夕では変わらない。
変わらなくても企業や税務署は何も困らない。
むしろ企業にとっては、今まで同様の低めの賃金でも時間関係なく働いてくれる人材が増えるなら、むしろありがたいと考えるだろう。

結局のところ、国は専業主婦を前提にした機構を破壊した先でどんな世界を作るのだろう。それが見えない。

「専業主婦であれ、共働きであれ、片親であれ、親無しであれ、独身者であれ、みんなが共に幸せに暮らせる世界」こそが最終的な目的地だろうと思うのだが、そういう方向への意識改革はどうも進んでいないように思える。
それが進んでいるなら、進めていこうとするなら、上記したような貧困層へのフォローアップをセットにする位はしたはずだ。

意識改革が無ければ、今回の施策はただの増税だ。それも貧乏な共働き世帯ほど苦しむ増税だ。
そして件の記事の語る様に配偶者控除を活用していた人間へのバッシングが起こる可能もあるが、その時攻撃されるのも実は、記事主が語るような「経済的に専業主婦でやれている家庭」ではなく「経済的に専業主婦ではやれてなかったが配偶者控除+共働きでなんとかやれていた家庭」だろうと思う。
攻撃はつねに弱いものに集中するから。
それを防ぐにはそれこそ社会全体の意識改革が必要だけど、それを期待するのは難しいだろう。

実際の改革を伴わない理想はお題目同様価値のないたわごとだが、理想の無い改革はただの暴力だ。
そして暴力はより弱いものに向かって振るわれる。ほとんどの場合。
それを称賛し得るのは「自分はぶたれることは無い」と思っている人だけだと思う。

落語もメディアの一つ

zasshi.news.yahoo.co.jp

この記事に対し

一人で全部を演じる「落語」は本当に面白いのか? (メディアゴン) - Yahoo!ニュース

うわあ、多様性が拡大した現代でこんなこと言う人が…。わかりやすい表現だけが客にとってのメリットと言うならテキストは滅ぶべきなの?想像力を働かす幅の違いがメディアの違い。それを選ぶのも表現の一部だ。

2016/09/23 23:27

ブコメしたのだけど補足。
これで件の記事にPVを与えると思うとどんだけ優しいねんワシと思うけど、置く。

分かりにくいことはメディアとしてダメなことか

落語の形式は、あくまで様々な表現形式の中の一つであり、メリットもあればデメリットもある。
それらのメリット、デメリットを勘案したうえで、そのコンテンツの表現にそのメディアを使うのが効果的か否かを語るのなら話は分かるが、「わかりやすか否か」で語るには明らかにおかしいと思う。
端的に言えば、「わかりやすい」ことはそんなに客にとって良いことなのか?ということだ。

例えば「シン・ゴジラ」や「エヴァンゲリオン」だ。
膨大な情報量を詰め込んだ展開。一回ではたぶんわからない。
もちろんそれゆえに「私はつまらないと思った」は有りだ。
だが、私はあれゆえにぞくぞくするような面白さを感じたし、同様に感じた人もそこそこいたと思う。
あるいは古典的な作品の多く。
ずっと読み継がれていて、その当時の社会に関する知識がなかったり文体を読みこなすことができないと楽しめないそんな作品群が、得も言われぬ新しい知見につながることは多々ある。
困難さは得てして発見や改革や新しい知見への入口を開くきっかけになる。そのゾクゾクする快感よ。

もちろん「わかりにくいことが正義」と言いたいのではない。
だが、わかりにくいこともまた魅力になりえるということを言いたいのだ。

客の数×コンテンツの数だけ響く方法がある

故・立川談志は、その後半、いわゆる落語調という物に対し反抗をしていた人だが、だからと言ってそれを否定はしていなかった。
伝統芸能としての落語の維持に、落語調がどれだけ寄与してきたかを知っているからだ。
パターナリズム、マンネリ、長い年月の変動に耐えうるスリム化の果てにまつそうした難点、それもまたある種の人々には魅力となりえる。

客の数×コンテンツの数だけ響く表現方法がある。
問題なのはその時代その人々を前にどのコンテンツをどういう方法で表現するかであり、それ自体もまたコンテンツの一部だという点だ。
言語情報が多い少ない、肉体に頼ってるor言葉に頼ってる、目で見える見えない、聞こえる聞こえない、触れる触れない、そうした様々な要素の組み合わせによってさまざまなメディアが生み出されてきた。
そしてそれらのメディアごとにしっくりくるコンテンツ遠いコンテンツがあり、それらをそのコンテンツで最適化するための努力が古典的なメディアであるほど繰り返し行われてきた。
その弊害はもちろんある。でもその弊害だけを語ることはメディアの特性という点を見誤ることにつながる。

件の記事で筆者は一人が演じ分けることの弊害を語っている。
が、一人が演じることによって完成度を高めやすいという利点については一言も語らない。役の数だけ役者を出し場面の数だけ舞台セットを変え、それらが「客にわかりやすいコンテンツを作る」ことにつながると、それをしないのは単に表現者の怠慢だと断じている。
が、だ、
あるプロジェクトに関連する人が一人増えるごとに、それを一つに軸にまとめる困難さは等比級数的に増していく。
それは逆に言えば、一人の演者がすべてを表現する形式であるほど一つの軸にまとめることは極めてやり易くなるということだ。
それはつまり、表現としての完成度を高めやすいということだが、その代償が一人での演じ分けであり一人多役の難しさであり言葉中心の演技方法。それをあえて選ぶのか否か。

膨大な費用とスタッフを動員して撮られた映画より完成度の高い一人芝居がドスンと胸を突くという経験は0ではない。逆ももちろんある。
そしてどちらを選ぶかは、あるいはどの程度分かりやすい・分かりにくい表現を選ぶかは表現する人間の求める物によって決まるし、それを見聞きするかどうかは、それを見聞きする人間がそれを求めるかどうかによって決まる。
それ自体が、表現行為の一部なのだ。

落語のメリットデメリットを語るなら

繰り返すが、落語なら何でもOKと言いたいわけでもたくさんの人が絡んだコンテンツがダメというのでもない。どちらもありなのだ。
そしてそれを判断するのはそれを見聞き感じる一人一人であり、そしてその判断はあくまでその人にとっての判断であって絶対的真理ではけしてありえない。

「今の落語が今のやり方に安住していていいのか?」という話はもちろん語られるべき話ではあるが、その代案として演劇やら映画やらみたいな表現を最良として持ち出すのは悪手過ぎる。
言葉一つで済む場面で法律だとか弁護士だとか持ち出す様な仰々しさと言うべきか。
メディアを語るなら、それぞれのメディアの限界とメリットとデメリットを把握した上で語るべきだし、それぞれのメリットをメリットとして語れない人間はそのメディアについて語るべきじゃないと思う。

…まあ、「落語はわかりにくい」という批判を、読み手の想像力や知識や解釈に全てを委ねるテキストメディアで行っている時点でおかしいと思わない感覚の持ち主である時点で、何をかいわんやなのだが。
(なぜ画像でもっとわかりやすくしない?動画を使わない?自分の文章は誤読される可能性が全くないとでも思ってる?それって怠慢じゃないの?)
(でもそうした合理性より、それによってアクセスが増えるからとこのメディアを選んでるというならこれ以上言うべき言葉は無い。)

追伸
もちろん、落語に携わってることだけを以て、あるいはパターナリズム金科玉条として疑問抱かずにいることを、あたかも崇高な指名を果たしているかのごとく語り振る舞う一部の増上慢の塊を認めろと言うつもりはない。
「私はつまらない」は「私はつまらない」なのだ。その人にとっては絶対なのだ。
落語であるだけで「無条件で評価されるべき」と考える人間は、落語であることを以て責める件の記事主と同類だと思うから。

「一生現役=ぽっくり死」への願い

poremoto.hatenablog.com

この記事、とても素敵な話で、また同時に介護に実際携わっている方々にとってはとても切実な要素を含んだ記事なのではと感じている。
私自身は今のところ親などの介護をすることもなく来ており、できることならこのまま介護することなく行けたらと考えている愚か者なのでこうした問題に対して本来発言する言葉を持たないと思ってはいるのだけど、この記事を読んで

オシャレしてケアホーム - 今日もぽれぽれ

とてもいい話&切実な話。/会社みたいな雰囲気のケアホームとかがあっても良いのかもしれない。いつまでも現役の様な雰囲気を入所者が味わえるの。(星新一の「コーポレーションランド」みたいな)

2016/09/21 16:36

ブコメさせて頂いた。
これについて補足したい。

「一生現役」と「ぽっくり死」

「一生現役」を願っている人はたぶん結構多いと思う。
最後の最後まで自分の力を十全に発揮して生きたいと願うこと。これは同時に「死ぬ時はぽっくり死にたい」ということでもある。
ぽっくり寺というのがある。
参詣するとぐずぐずと体調崩して寝たきりになったりせずぽっくりと死ねるという言い伝えのある寺だが、これなんかも直前まで現役を求めるという意味で「一生現役」の陰画と言える。

また、西洋絵画に「死を思え(メメントモリ)」というテーマがあるけど、「一生現役を願う」ということは「“ぎりぎりまで死を思わずに生きたい”と願う形で死を見つめる行為」ということもできるだろう。

気を付けなければならないのは、「ぎりぎりまで死を思わずに生きる」ということは不可能なのだが、それを可能だと考えると、得てして増上慢な考え方に繋がりがちである点だ。
つい最近「人工透析は自業自得」と言った人がいたけど、この言葉の裏には「原因(自業)を作らないようにしていれば結果(自得)はやってこないはずだ」という考えがあるし、それは同時に「自業を作っていない自分は当然人工透析を受けるようなことにはならない」という自信にも繋がっている。
こういう人たちは、無意識に「自業」だけが自分の運命を左右すると無邪気に信じている。
しかし現実の世の中は、ちょっと考えればわかるが自分の業だけではなくあらゆる人の(人だけでなくあらゆる存在の)業が複雑に絡み合って紡がれているのにそれを見ず、自分の業によってすべてが決まると考えているということだ。これが増上慢でなくなんだろう。

彼らと、「一生現役」を願う人やぽっくり寺に参詣する人の大きな違いは、「自業がすべて」と考えているか否かの違いと言っていいが、話がそれたので本筋に戻す。

「ぽっくり死」は肉体衰弱意気軒高な状態で起きる?

「一生現役」を願うということは「ぽっくり死にたい」ということでもある。だが「一生現役」を貫ける人は少ない。それを妨げるものは何だろう。
一番大きいのは(上の論調と相反するが)「自信」なのではないかと思う。

ある老齢の役者、矍鑠とし若手にも負けずそこに交じって最前線で役者をし続けたある役者が、ある公演でセリフが上手く出てこなくなった。セリフだけではない、それまで段取りなんかも(ある程度サポートされながらではあるが)問題なくこなしていたのがその公演ではそれができなかった。
と、その公演のけいこ中から急にその役者の雰囲気がぼんやりしていき、その公演の途中で降板、郷里に帰って音沙汰が無くなったが数年後に亡くなったという話を聞いた。
本人に話を聞いたわけではない、あくまで推測なのだが、その公演のけいこ中に自分が役者としてやれるという自信を喪失したことが生きる力を失わせたのではないかという気がする。それが彼の死を近づけたのではないか。
だがこれは同時に「(ほぼ)一生現役」だった役者の話でもある。

この話は、だから老齢の役者の切ない晩年の話であり同時に「一生現役」とは何かを示唆する物語でもある。

「自分は自分のやるべきことをやれている」という自信が本人の「現役意識」を刺激する。「現役意識」は生きる力に直結する。
「現役意識」が肉体の限界まで維持継続できた時、「現役意識」の有無がその人の生死とつながる。その状態、つまり肉体は衰弱し精神だけが意気軒高な状態までたどり着けば、あとは「現役意識」が途切れた時が死の時となる。
「一生現役=ぽっくり死」の成立だ。
(肉体が堅強な人は、「現役意識」が途切れることによる生きる力の減退があっても、肉体がそれを受け止め死に至ることは無い。結果寝込むことになるかもしれない、鬱になるかもしれない。それでも身体は死なない。比較的堅強だからだ。)

件のブコメは、そういうことを目指すケアハウスがあったら良いのにという軽い思い付きで書いた。
もちろん、介護の現場でそんなことを目指すことがどれだけ大変かはちょっと想像を働かせればわかることで、不謹慎なブコメだったと思ってはいる。
でも正直需要はあるのではとも思う。

世の中的に結果の残らない仕事を精一杯遊ぶ世界

ブコメ文中の星新一の「コーポレーションランド」というのはショートショートの一篇で、就職希望者がある会社の見学に来たらどこもかしこもまるでテーマパークの様に遊ぶ仕様になっていて…という話なのだが、この作品の世界では「遊ぶ」=「仕事」であり、通常世界で求められる「収益」などの「結果」は求められない。真剣に仕事を遊ぶ・遊びを仕事とする世界だ。
例えば、80年代位のビジネス環境を模した(まだPCで一般化する前。電卓と紙と鉛筆とボールペン。電話と手紙で連絡。直接会いに行くのが一番効率が良いみたいな。)会場で、データの整理、企画の作成、交渉、結果のフォロー、営業等々を行い、会社の寮を模した部屋に帰る様なケアハウスがあったら、会社人間だった男性などにとっては安らぎの世界よりも「一生現役=ぽっくり死」に近づける日々を送れるのではないだろうか?
もちろん安らぎの空間がいいならそちらに行けばいい。が、あの燃えるような熱い日日に憧憬を抱きつつ自分の肉体の衰えや周囲の環境ゆえに安らぎの空間に自分を無理やり適合させて生きるのをあきらめている人は結構いる様に思うのだ。

問題は、どういう仕事をさせるかだが、無理に現実とリンクさせて収益が上がることを目指すとか補助金を目当てにするとかするよりも、いっそ現実における収益や結果度外視で、彼らが「仕事」と思えるものに限定して仕事を創作・表現・発行し、彼ら自身からその料金をもらう形にしたらどうだろうか。仕事を楽しむ空間=仮想経済圏自体の運営をビジネスにするのだ。
仮想世界で、仮想の仕事をこなし、仮想の収益を得て、仮想の会社で昇進を目指す。(そしてその代償に利用料金を払う)
そんな施設。
セルバンテスの描いた「ドン・キホーテ」みたいに老いてなお己のあるべき理想とする姿を追い求めることができる施設。
(は!VRとMMORPGとケアハウスの連動とか?)


自分に立ち返った時、自分の親にもまた自分自身も「一生現役=ぽっくり死」して欲しいと正直願っている。
だがそうは都合よくいかないのだろうなあとも感じている。
感じているがそれでもなお、精一杯力を使い尽してぽっくりと死ぬことができる世界がそこにあるなら、そこに行きたいと願わずにいられない。

生活意識の慣性

前の記事にブコメ頂いたので追記

オドラテク(仮)のこと

日本の景気が悪いせいですかね。自殺者が多いのは。

2016/09/21 00:02
b.hatena.ne.jp
結局そうなんだろうと思う。

件の記事のグラフからは、失業率と自殺者数の変動には相関がありそうに見えるけど、不思議だったのは2004~2007年の間は失業率は下がれど自殺者は横ばいだったのよね。
私の記事ではそこについてははっきり書かなかったのだけど「実際の失業率」×「世間を支配している景気観」みたいなものが働いているのでは?という気がする。

www.garbagenews.net
この記事の中段にある1991~2016年の消費者物価指数をみると、この時期ってバブル以降の物価の下降が一段落した時期に見える。
また
www.garbagenews.net
こちらの記事の実収入に占める非消費支出の割合の推移をみると、2008年以降に跳ね上がる前の踊り場的な状態に見える。

同じ時期を失業率と自殺者数の低下が連動している2010年以降で比較すると、消費者物価指数は乱高下しているし、非消費支出の割合は上昇している。むしろ不安定or悪化していると言っていいのになぜ失業率と連動して減っているのか。

たぶん、バブル期からの期間の差なのだろうと思う。
バブル期を知っている人間、特にその旨みを味わった人間にとって、崩壊後の変動は「没落」とし感じられただろう。そういう感覚に囚われている状態では物価が安定していても、非消費支出率はあまり変わらないと言われてみても気安めにはならず、「ここで気を許したらまたもっと没落するかも」とむしろ自分の没落への不安に襲われる人が多かったのではないだろうか。

それから5年過ぎ10年過ぎ、「没落」した状態に慣れてしまえば、見えてくる世界が変わってくる。
バブル崩壊直後はこのうまい状況を少しでも維持して、同じレベルの生活を…と思っていた人も、とりあえず糊口をしのげれば十分と考え始めたりする。
物価は高くなり、非消費支出率も高くなり、それでも生活の糧を得る仕事があれば御の字と思える人間だけが生き残ったからということもできるだろうか。

目の前の日々の変化にモノの流れにどうしても囚われ流される。
生活意識にも慣性が働くということなんだと思う。

逆に言えば、他所から見て没落しているように見える状況であっても、本人たちを支配する景況感が「景気が良い」であるなら、実際の失業率の変動以上に自殺者数は低くなるかもしれない
(とはいえ、幸福度世界一と言われるブータンが自殺率で世界20位にいるのだからそうとも言い切れないかもしれないが。…というか幸福度の測定方法が間違っているのかもしれない。)

日々の暮らしをそこそこ維持しつつ、適宜生活意識をリセットして慣性から自由になれたら、比較的幸せに長く生きることができるのかもしれない。

生活意識の慣性

前の記事にブコメ頂いたので追記

オドラテク(仮)のこと

日本の景気が悪いせいですかね。自殺者が多いのは。

2016/09/21 00:02
b.hatena.ne.jp

件の記事のグラフからは、失業率と自殺者数の変動には相関がありそうに見えるけど、不思議だったのは2004~2007年の間は失業率は下がれど自殺者は横ばいだったのよね。
私の記事ではそこについてははっきり書かなかったのだけど「実際の失業率」×「世間を支配している景気観」みたいなものが働いているのでは?という気がする。

www.garbagenews.net
この記事の中段にある1991~2016年の消費者物価指数をみると、この時期ってバブル以降の物価の下降が一段落した時期に見える。
また
www.garbagenews.net
こちらの記事の実収入に占める非消費支出の割合の推移をみると、2008年以降に跳ね上がる前の踊り場的な状態に見える。

同じ時期を失業率と自殺者数の低下が連動している2010年以降で比較すると、消費者物価指数は乱高下しているし、非消費支出の割合は上昇している。むしろ不安定or悪化していると言っていいのになぜ失業率と連動して減っているのか。

たぶん、バブル期からの期間の差なのだろうと思う。
バブル期を知っている人間、特にその旨みを味わった人間にとって、崩壊後の変動は「没落」とし感じられただろう。そういう感覚に囚われている状態では物価が安定していても、非消費支出率はあまり変わらないと言われてみても気安めにはならず、「ここで気を許したらまたもっと没落するかも」とむしろ自分の没落への不安に襲われる人が多かったのではないだろうか。

それから5年過ぎ10年過ぎ、「没落」した状態に慣れてしまえば、見えてくる世界が変わってくる。
バブル崩壊直後はこのうまい状況を少しでも維持して、同じレベルの生活を…と思っていた人も、とりあえず糊口をしのげれば十分と考え始めたりする。
物価は高くなり、非消費支出率も高くなり、それでも生活の糧を得る仕事があれば御の字と思える人間だけが生き残ったからということもできるだろうか。

目の前の日々の変化にモノの流れにどうしても囚われ流される。
生活意識にも慣性が働くということなんだと思う。

逆に言えば、他所から見て没落しているように見える状況であっても、本人たちを支配する景況感が「景気が良い」であるなら、実際の失業率の変動以上に自殺者数は低くなるかもしれない
(とはいえ、幸福度世界一と言われるブータンが自殺率で世界20位にいるのだからそうとも言い切れないかもしれないが。…というか幸福度の測定方法が間違っているのかもしれない。)

日々の暮らしをそこそこ維持しつつ、適宜生活意識をリセットして慣性から自由になれたら、比較的幸せに長く生きることができるのかもしれない。

団塊の世代とバブル崩壊

togetter.com

この記事に

日本の深刻な殺人離れ - Togetterまとめ

面白い。自殺者減ったんだと思ってみてみたらバブル崩壊期以前の水準に戻っただけだった。他殺死亡者は崩壊直後の半分以下に減少してるのに自殺者数は3分の2というのはなんとも切ない。

2016/09/16 17:42

ブコメしたのだが、面白いなあと思って自殺者の年齢のデータを見てみた。

自殺者の年齢帯別の推移を比較

3 年齢階級別の自殺者数の推移|平成25年版自殺対策白書 - 内閣府

このページにあるグラフで1997年頃からの推移を見ると、

  • 15~24歳は1997年に一時増加して減少に転じ、2001年頃からは横ばい。14歳未満はほぼ横ばい。
  • 1997~2004頃まで突出して多いのはその時その時の45~64歳代。2003年をピークに45~54歳は激減、55~64歳は微減しはじめ2008年から激減する。
  • 25~44歳と65歳以上は年々増加していたが、25~34歳は2005年から、35~44歳と65~74歳は2009年から減少に転ずる。75歳以上は2007年頃から横ばい。

という特徴が見て取れる。

それぞれの転機となった年を押さえつつ件の記事のグラフで見てみると、

  • 1997年に他殺死亡者数は増加に転じるが2004年頃1996年水準以下に戻りその後も減少を続けている。
  • 失業率は2003年をピークに減少に転じていたが2008年から増加に転じ2009~2010年をピークにまた減少に転じる。
  • 自殺者は1997年に激増してピークに達した後ほぼ同水準で上下し、2009年から減少に転じる。

ちなみに1997年はバブル崩壊、2009年は民主党が政権に就いた年。

人口ボリュームの多さは馬鹿にならない

2000年、2010年の人口構成のグラフを見ると

http://www.ipss.go.jp/site-ad/toppagedata/2000.png
http://www.ipss.go.jp/site-ad/toppagedata/2010.png

2000年の時点で一番人口が多い団塊の世代は50歳前後、団塊Jr.は25歳前後。それがそのまま移行していく。

  • 2000年頃に人口が一番多かったのは団塊の世代は50歳前後、2010年頃はそれが60歳前後になっている。バブル崩壊時に45~54歳の自殺者数で突出して多いのは人口ボリュームが一番大きかったからと言えるのではないか。
  • 25~34歳の自殺者が減少に転じる2005年は、団塊Jr.のピークが世代の中心を過ぎた時期でもある。

という見方をすると、各世代の微妙な減少開始のタイムラグは、ボリュームの多い団塊の世代団塊Jr.の世代がその世代を通り過ぎていく時期の影響、つまり人口ボリュームの多さが変動に対する影響を大きくしているためとみることができると思う。

1997年以降の自殺者増加のパターンの差はバブルとの関わりの差?

だが、そういう見方でいうと違和感がある部分もある。
例えばバブル崩壊直後に自殺者が急増したのは55~64歳代も同じだという点だ。
また、65~74歳、75歳以上は、バブル直後に急増はしていないが2009年まで徐々に徐々に増え続けている。
それに、人口ボリュームの点では団塊の世代に次いで多い団塊Jr.を含む25~34歳よりもむしろ団塊-団塊Jr.の中間層である35~44歳の方が自殺者数が多いのも興味深い。
これらは人口のボリュームだけでは説明がつかない。

おそらく、バブル当時一番その旨みを味わった=バブル崩壊の悪影響をもろに受けたのは人口ボリュームが多い団塊の世代とその上の世代だったのだろう。バブルは「金が無くても金を借りて金を儲けよう、金がある人間はそれを使ってますます金を儲けよう」という時代であり、一方日本の社会では年齢が高いほど貯蓄が多く、収入も現役であれば年齢に比例しがちであるから、人口ボリュームだけでなく、年齢も影響の大きさに比例していた部分が大きいのだろう。
現役で収入があり貯蓄も多く人口ボリュームも多い団塊世代とその上の世代が初めに大きな影響を受け、その影響が波紋の様にその周囲の世代に広がっていって自殺者数が全体的に増加していったという感じだろうか。

団塊Jrはまだ社会人としては新人の時期で主体的にバブルの影響を享受していたとは言い難い。その中間層は、団塊世代ほどボリュームもなかったし社会的な位置でもそこまで直接的影響を受けるほどではなかったが、収入などは団塊Jr.より高かっただろうから影響も受けやすかったと考えれば上で書いたズレも理解できる。

団塊の世代と呼ばれる突出して人口ボリュームの多い世代が社会の中心を担う時期にバブルが発生しなかったら、その後の失われた20年は存在しなかったということもできるだろう。
だが、バブルとは「時代の空気の増幅」であり、増幅の影響はそれに参与し関わる人間が一人でも多い程等比級数的に大きくなっていくものだから、人口ボリュームが多い世代(彼らは同時に戦後の経済的発展の恩恵を受けた世代でもあった)が存在していたからこそバブルが発生したともいえるわけで、仕方が無かったのかもしれない。

(そういうことで言うなら、2009年からの失業率の低下も、政権政党や失業対策などの違いだけではなく、団塊の世代がかつては現役引退の年とされた60歳に達する頃だったという点も大きかったのではないかという気がしてくる。が、それを書き出すと終わりそうにないので終了。)

余談:安定は成果主義を 不安定は年功序列

ところで、これは余談だが(というか全部余談みたいな文章だが)色々なグラフを見ていて

blog.livedoor.jp

ここにある「成果主義年功序列どちらがいいか」のグラフと

図録▽正規雇用者と非正規雇用者の推移

ここにある「正規雇用者数と非正規雇用者数の推移」のグラフを見ていたら、非正規雇用者率の変動と年功序列を求める率のグラフが微妙に連動しているような気がした。
非正規雇用率は1990年から年々増加しているが、2008年をピークに若干減少し2011年にまた増加に転じて2014年以降はほぼ横ばいとなる。
年功序列を求める人の率は2002年頃から増加し始め、2009年にピークに達し2011年から減少に転じ2014年以降また増加する。
調査の母数も調査方法も全く違うものなので単純比較すべきものではないのだが、2009年、2011年、2014年という区切りでどちらも変動しているのが興味深い。2009年一時的に正規雇用率が増え年功序列を求める意識から成果主義への移行を促し、再び非正規雇用が増えたことが年功序列を求める人の増加につながったとみると、つまり「安定した状況では成果主義を求め、不安定な状況では年功序列を求める。」ということも言えるわけだからなんとも皮肉な話だ。