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税務署の基準は名誉?

ビールの定義拡大 「クラフトビール」開発を後押しへ | NHKニュース

えーと、これのどこが開発後押しなのかな。ようやく定着し始めたクラフトビール業界を税務署が刈り取る宣言であってむしろクラフトビール開発を後退させる施策だ。(小規模保護はワインの話。混ぜ方がひどい。)

2016/12/06 07:39


このブコメした後、他の人のブコメ観てて気がついた。

要するに「税務署にビールとして認められる」ことに価値を見出す人というのがある程度いて、たぶん政治の世界とか官僚の世界には結構いて、そういう人から見ると、「きちんとビールに認めてやるんだから光栄だろ?」って言うスタンスで、NHKはタイトルを付けたということなんだろうな。

 

発泡酒どころか第三のビールで十分な私には理解できないのも仕方ない。

うまけりゃ、安い方がいい。

その上、企業の負担が増えないなら益々良い。

そういう視点では、このタイトルは理解できないということなんだろうな。

 

既視感

トランプ大統領誕生に、全米で反トランプデモが起きてるらしいけど、つい最近もこういうの見たと思ったら、英国のEU離脱の時だった。

 

あの時も、エスタブリッシュメントは結局離脱はないと考えていたのが、蓋を開ければ離脱が多数ということで、こんな馬鹿な!みたいな話がでていた。

 

どちらも、既存の構造への不満が底流にドロドロ流れている。このままでは何も変わらない。

変わるなら、変えてくれるなら、誰でも良い。

 

様々に理論的に正しいことの言える人は多い。そうした訓練は、構造の上の人間ほど受けることが出来やすい。ここ数十年の歴史は、正しいとされる理念や理論によって彩られてきた。

自由平等博愛なんてのもそうで、でも、現実にそれらが弱い人々を救ってるかと言えば、救ってはいるがまだまだ足りない。

 

むしろ、自由の名の下、強者が弱者を弱者がより弱者を蹂躙することが許され、平等の名の下に、弱者への保護は切り捨てられ、博愛の名の下に、強者やその取り巻きへの援助は強化され…なんて言うことも起きている。

 

言葉は道具だ。

道具は使い方でその意味が変わる。

 

救ってくれないお題目なら、そんなの必要ない。たとえ地獄に落ちたとしても、今よりはマシだ。 

 

…と言うような思い。

 

私はそれでもお題目も大事だと考えてしまう口だけど、そうした底流の存在を受け入れると、色々腑に落ちて来る。

死んで花実が咲くものか

宇都宮の元自衛官自爆事件について書かれた

これこそがテロなんだと思った: 極東ブログ

この記事を読んで、ではなぜこの事件が「テロ」と呼ばれないのかを考えてみた。

この事件といわゆる一般的なテロとの共通する構造

テロとはそもそも何か?
分かってるようで実は明確でない。その定義は様々なようだ。

外務省のこのページを見ると、中段辺りでテロは以下の様に定義されている。

テロに国際法上の定義はありませんが、一般的には、「特定の主義主張に基づいて、国家などにその受け入れを強要したり、社会に恐怖を与える目的で殺傷・破壊行為(ハイジャック、誘拐、爆発物の設置など)を行ったりすること」を指します。言い換えれば、「テロ」とはとても広範囲で多岐にわたる行為を含むものであり、その形態には実にさまざまなものがあります。

妥当な説明だと思う。
これを定義として考えた場合、今回の事件の場合、犯人の主張は特定の主義主張に基づいているとは思えず、国家に対する具体的な事項の受け入れの強要もないように見える。
現場で見つかった遺書には「命をたって償います」とあった様だが、これは主義主張とは言えないだろう。

犯人のブログは怒りと不満とに満ちているが、ではと言って具体的にどういうことを周りにして欲しいのかという具体的な主張は、少なくとも私には汲み取れなかった。辛かったのは分かる。納得できないのも分かる。だが例えば、ブログの最後のエントリーのタイトルで並べた「内閣官房 内閣法制局 内閣府 宮内庁 国家公安委員会・警察庁 総務省 法務省 文部科学省 厚生労働省」などに対し、具体的にこういうことを受け入れろという言葉はない。

ブログの記事のほとんどには「宇都宮家庭裁判所が栃木県知事から任命された栃木県地方精神保健福祉審議会委員を5年間連続で欠席している」という一点だけを執拗に繰り返しているが、これは離婚裁判が自分の望む方向に進まないことに対する不満を社会正義的な話に転換して語ろうとしているだけの様に見える。

彼が妻に対するDVで訴えられ敗訴したこの裁判、もし仮に彼の望む通りに進んでいたらどうだっただろうか。
たぶん、彼は死ななかったのだろう。
だが裁判における妻側の主張なども見れば、彼の主張は無条件に受け入れることは難しいものであると感じる。

彼のブログの中で後半の方に「死んだら認めてやると裁判官に言われた」旨の記載がある。
記録も無いと書いているから彼の幻聴だった可能性は極めて高いが、強いてこのブログの中で、のちの自爆事件と絡めて彼が訴えたいことを抜き出すとしたらここの部分だろう。
この裁判官に言われたとされる言葉は、自分の価値観の表れなのだろうと思われる。「死ねば認めざるを得ない」と彼は考えていたから、死んででも自分の主張を認めさせたいと考えた。

そこまで考えれば、これは一般的な政治的テロと構造的には何ら変わりないと言うことがわかる。
そして逆に言えば、そこまで考えなければこれをテロと見ることが出来ないと言うことでもあるのだろう。

政治的努力の放棄=共感獲得への努力の放棄?

「政治的テロにおいて大事なのは犯行声明」とはよく言われる。
既存の政治システムを使い、そのシステムの中で合法的に自分たちの主張を認めさせ、その主張に応じた政治状況・政治体制を構築すること。本来取られるべきそうした手段ではなく恐怖と暴力で自分たちの主張を認めさせているだけ。
テロリストはテロ行為を既存の政治システムに対する代替行為と考えている。

だからそこには当然の様に主義主張に基づいた犯行声明が付いてくる場合がほとんどだ。
犯行声明が無ければ、彼らにとってすらテロがただの犯罪行為でしかなくなってしまうからだ。

私たちはそれに慣れている。政治的な主義主張の実現を目指すテロ行為の存在に慣れている。
だからテロと言ったら必ず主義主張に基づいた犯行声明がある、と思っている。

だがそれは、テロ集団といえど、たくさんの人々が関わって行く中で、彼らの思いを彼ら自身が皆で共有できる主義主張にまとめる過程を踏まえたからそういう主義主張が語れるし犯行声明も出せるのだ。

彼の場合はどうだろう。

彼のブログで語られる不満は絶望は、不満や絶望の表現としてはよくわかる。
だが、それを踏まえてこうあって欲しいという理想、あるいはその実現のためにこうして欲しいという手段については、あまりに朧気だ。

おそらく本人の資質もあったろうし統合失調症の疑いもありそうだから難しかったとは思うが、もし彼が己の不満・絶望を元に、どうあるべきか、そのために何をすべきかを明確にすることが出来たら、その主義主張を明示して今回の自爆事件を行っていたら、この事件は当初から自爆テロとして報道されていたかもしれない。

否、否。

それが出来ていたら、彼はたぶん別な手段を選んでいたのではないか。

もっと他の人が理解し共有・共感できる形で自分の思いを言葉にできたなら、彼はこんな形で主張を行う必要は無かったのではないか。
政治的テロリストが既存の政治システムを拒否してテロ行為に出るように、彼は「他の人との交流を通して世界を動かすこと」に絶望しそれを拒否して強制的に自分の思いを認めさせるために今回の自爆行為に出た。

「自分の思いや考えが他人に共感される」

自爆の前にその経験があったなら、否、それを感受する余裕があったなら、その経験を通しての彼自身の変化があったなら、彼は自爆する理由を失っていたのではないだろうか。
だが、彼はそれを得ることは無かった。だから彼は自爆したのだろう。

動いた先が見えない行為は動かしたことにならない

とは言え、だ、彼のブログを読んでそれに共感しろと言われても、少なくとも私には無理だ。
当事者だって(いや当事者だったら余計に)難しいのではないかとも思う。

妻が宗教にはまった、娘が統合失調症になった。
だからと言って、自分のDV行為などを理由に起こされた離婚裁判について、その判決を不服とするのはともかくだいぶねじれた方向で裁判所批判を始める人が身近にいて、その人を理解しなければその人が自殺するよと言われても、私はたぶん無視するだろう。
無理だ。私にそんな余裕はない。彼の身近に私がいても彼の自爆は止められなかっただろう。

どうしたら止められたのだろうか。
正直絶望的な話だ。
そして絶望的な状況では、人は自分の命の価値を高く見積もりがちだ。
絶望的だからこそ、0に極めて近い命の価値を0にしないために死ぬ。
自殺とは「自分の世界を終わらせる行為」だ。

だが、「世界を終わらせること」は「世界を動かすこと」のうちに入るのか否か?

希望があるなら人は死なない。死ねない。
希望を持てる人が一人でも多くなることが、こうした極私的テロを減らすための方法なんだろう。
希望とは畢竟「自分に世界を動かす力がある」という確信のことだ。

彼はその死によって、それに対する報道を起こさせ、それを見た人にブログ記事を書かせしめ、その記事を見た私にブログ記事を書かせしめている。これは彼の死が私を動かしたことになる。
だがもちろん、そんなことは彼にとってはたぶん全く価値のないことだ。

「彼に直接関わりないから」ということではない。
彼は死んでしまったからだ。

政治的テロの場合、自爆した人間は自分の死が残る人々の希望になると考える。
彼の死は彼の死でしかない。
彼がおそらく本当に得たかった人々の共感がこれによって発生したとしても、彼はもうそれを感受することができなくなった。
彼の行為によって動かした結果を感受できないなら、その変化は少なくとも彼にとっては無いのと一緒だ。
(これもまたテロと呼ばれない原因の一つなのだろう。主張の結果の受け手がいないという点で。)

だから「自分の世界を終わらせること」は「自分の世界を動かすこと」には入らない。

あの自爆が何千人何万人を殺すような結果につながっていたとしてもだ。
政治的テロがその主義主張に関わらずただの犯罪だ。同じく今回の事もまたその思いに関わらずただの犯罪だ。
世界を動かしたいなら、動かせると実感したかったのなら、彼は死ぬべきではなかった。

この世にあるありとあらゆるものは、その存在そのものによってそれと関わる全てのものに有形無形の影響を与え動かし続けているし、自らもまた動かされている。
それが自分にとって望ましいものでなかった時にそれを望ましい方に変えようと考えるのは業であり、自業・他業もまたさまざまに絡まって世界を複雑に動かしつづけている。

屁理屈で言えば、彼は生きているだけで世界をある方向に動かしていた。
その実感を感じることが出来ないだけ(また、自分の望む方向でなかっただけ)で。

彼は死ぬことで自分を絶望の淵に固定してしまった。
世界を願う方向に動かしたいなら死んではだめなのだ。

お祭りと馬鹿

 

この記事に対して書いたブコメに補足。

 

この記事に対して微妙な感じを受けたのは、「地方はどうでも良いのか」という点なんだが、それともう一つもやもやしてるのは「ハロウィンで騒ぐのは馬鹿なのか?」という点。

大前提としてお祭りで羽目を外して周りの迷惑省みず大騒ぎしている人々は、馬鹿か理知的かと言えば馬鹿だろうとは思う。

 

ただ、お祭りに際し馬鹿騒ぎせず理知的であることは理知的なのか?馬鹿騒ぎすることは馬鹿なのか?というと、微妙な話だと思うのだ。個人差が非常に大きい問題と言うか。

 

大体がお祭りと言う奴はなんで存在してるのかと言えば、そのお祭り毎に由来が色々あったりなかったりするが、一つ共通して言えるのは、それらは「日常の連続の中に有る非日常」である点じゃないかと思う。

もちろんその度合いもお祭り毎に個体差が有るのだが、明確な由来がなくてもお祭りは発生している(もちろん発生しないところも有るが)という点は興味深い。

たぶん、人にはお祭り…というか非日常の時間が必要なのだろう。なぜだろうか。

たぶん、非日常によって日常を相対化出来るからではないかと思うのだ。

 

お祭りの時だけ出て来る屋台や飾り、お祭りのためだけの踊りやお囃子、お祭りのためだけの人間関係、お祭りを実現するための準備は長いスパンではその共同体の日常であるが、人の通常の感覚では日常の中に入り込んだ異質な時間だ。

相対化は異質なものが存在して初めて可能になる。そして相対化は内部の絶対化を手助けする。

相対化されない状態の世界ではそこにいる個人の差が大きな意味を持つ。

「私と彼は違う」にどうしても目が行く。

だが、その共同体に異質な時間が来ると「いつもの私達と今の私達は違う」という点が浮かび上がる。

もちろんその意味の解釈は人それぞれなので、その効果も様々なのだが、不思議と共同体への帰属意識が醸成され、共同体への不満が軽減されることが多いように思う。

思うに「私と彼は違うがより大きな目で見れば私たちは共通の船に乗った存在なのだ」ということを体感させる効果が発揮されやすいということなのだと思う。

辺縁の人ほど中心の人より帰属意識が強いとはよく言われることだが、これは異質なものがすぐそこにあることによる相対化が置きやすいためと言える。

相対化がより強い絶対化を加速するというのは皮肉だが、グローバル化した世界で右傾化が各地で進んでいる現状は正にその反映かもしれない。

 

閑話休題

 

お祭りは日常を相対化するための時間である、ならば、非日常を楽しむことこそが本来的には正しい過ごし方と言えなくもないのではないだろうか。

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソンというあれだ。損か得かはともかく、日ごろ理知的な人間が阿呆になることにこそお祭りの価値がある様に思うのだ。

 

 

もちろん、日常的な視点で判断するなら馬鹿だろうし、そういうのが嫌いな人があっち行けと言いたくなる気持ちは正直わからないではない。

それはブコメでも書いたが差別意識の現れでもあるのだが、無意識の差別意識が表層に現れるのは正にそういう時で、その時こそ自分の差別意識を意識できるチャンスでもある。

そういう変革のチャンスともなり得るのだ。

これもまた、お祭りの相対化の効果の一つ…と言うのは言い過ぎか。

 

(革命や変事がお祭りをキッカケに起きるなんて話は歴史上に散見されるのも、相対化した結果絶対化する価値は無い!に大きく傾きやすい時間だからだったりするのでは。)

本屋の未来?

togetter.com

この記事に

ブコメしたけど補足。

昨今(と言っても話題になってからもう20年近く経っているけど)、体験マーケティングというのが販売の現場で羽振りを利かせていて、つまり「物を売るのではなく、“価値あるものを買う”という体験を売る。」みたいなやり方が効くと言われているので、件の記事の編集者はたぶんそういう視点から発言したのだろうなあと思う。
で、件の古本屋さんは「体験の仕方にも色々あるでしょ」という話をしているという事なのだと思う。

つまり、「独特な本の匂いに囲まれた静謐な空間でゆっくりじっくり自分の気に入った本を選ぶ内省的な時間」を意図的にお客様に用意するのもまた一つの体験マーケティングであり、あるいは「ファッショナブルな空間で店員さんと会話を楽しみながらファッションを選ぶように本を選ぶ時間」も同じく一つの体験であって、どちらも唯一の正解ではないが、それを前提にその場、扱うもの、その時期、そこに来るお客様のニーズに応じて、より最適な方法を採ることが、少なくともマーケティングの視点からは重要であるということだと思う。

個人的には「おすすめ」が嫌い

個人的には、服屋でも本屋でも家電屋でも、話しかけられるのは苦手。過剰な接客をされると逃げ出してしまいたくなる人間なので、Amazonのおすすめなんかも鬱陶しくて仕方がない。
内省するに、これって「俺の選択を邪魔するな。余計なこと言うな。」という業の深さが根本にあるのだけど、同時に「周りの雑音で簡単に影響されてしまう心の弱さ」の故でもあるのだろうと思う。
「おすすめ」を「命令」と感じてしまう弱さ。だから、話しかけられることを忌避してしまう。
コミュ障の直接の原因は本人自身の自我の弱さ(それは取りも直さず自己肯定感の低さ)にある。
弱い自我を守るために他者からの働きかけに過剰に反応してしまうのだが、それはとてもしんどいことなのでつい忌避する方向に行ってしまう…ということなのだと思う。

精神的にきちんとぶれない自分を持っている一般の人達には言葉は言葉でしかないのだろうけど、私には飛び交う一言一言がパンチの様に感じる時がある。どんなに優しい言葉でもそうだ。
どうやってダメージを避けられるか、どうやって相手にダメージを与えずに(あるいは的確なダメージを与えて)言葉を届けられるか。
おそらく第三者的に見て何気ない会話の風景に見えるその場面で、そんなことを必死に考えながら言葉のやり取りをしているのだ。
「何をそんなに守ろうとしているの。傷ついたっていいじゃない。」
と言われたことも過去に何度かある。
全くその通りで、傷ついたって良いと開き直って会話しようとしたこともあるが、結局ものすごい精神的ダメージを受けた上に相手に伝えたかったことは全く伝わらずむしろ誤解され、立ち直るのに何か月もかかった。
上記の言葉は、リングに上がったボクサーに「ガードなんかするな」と言ってるようなもんなんだけど、もちろん言葉がパンチに感じない人々からすればごくごく当然の言葉で、もうこれは仕方ないのだろうなと思う。
私はたぶん、死ぬまで言葉をパンチのように感じながら日々を過ごすだろうし、そういう人間にとっては声掛けされる接客は銃弾飛び交う戦場に飛び込むようなものだから、しないで済めばそれに越したことはない。
(だからと言って人と触れ合いたくないわけでもないのだ。ああ、我ながら面倒くさい。)
(そんな人間は、物自体で、あるいはPOPで、書かれた情報で、雰囲気で人を感じようとする。ああ面倒くさい。)

求めるものを与えることの多様化

閑話休題

「ねじまき鳥のクロニクル」だったと思うけど、主人公の叔父が実業家で、その成功した方法っていうのが、いいなと思う店舗物件のところで一日に3~4時間ずつ何日もそこに立って、その前を行きかう人の顔を余計なことは考えず無心に眺め、思いついたことをやる…というやり方だった。
これはまあファンタジーだから、これで上手く行く人がどれ位いるかはともかく、自分のやりたいことではなく経済効率でもなく、その場所、そこを通る人々を見てそのニーズを汲み取ることが大事という点はその通りだろうと思う。

結局のところ、会話を楽しむ人々、人と触れ合う経験を求めている人々をターゲットにするなら、そういう体験を軸にしたマーケティングは成功する。そういう人たちが集まりたい空間を用意し、そういう人たちが喜ぶ本をセレクト出来たら完璧だろう。
それはたぶん本屋さんの未来像の一つとして有りなのだろうと思う。今ほとんど無い=これからも無いというわけではない。
以前スゴ本(わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるとか)絡みのコンテンツをチェックしていた時期があって、オフ会の様子などああ、楽しそうだなあと思ったりもした。ああいう空間。
互いに良いと思う物をおすすめしあって、それを販売するようなショップっていうのはたぶんありなんだろうな。
(でもねたぶんそういう空間に私の居場所は無い。モランが灯りに引き寄せられている様なもんだと思うのだ。)

そういう店を求めている人もたぶんいるし、たぶん客を得れば売上も伸びるだろう。その結果、ゆっくり本を選べない、本を選ぼうとすると店員があれこれ話しかけてくるみたいな店が増えて行く可能性は無くはない。
そんな店ばかりになったら、私は「本屋に行く」という体験自体を諦めるだろうと思う。
「求めるものを与えること」が経済の根幹だと思う。で、「求めるもの」を画一的に捉えることで効率化を図り経済規模を大きくしていった果ての今の状況。大きくなり過ぎ画一化された「求めるものを与えること」をより細分化していくことこそが重要なのだと思う。

かつての様に画一的に、どこの本屋も「本屋では静かに」を当然としていた状態が唯一の正解ではないのだろうけど、だからと言って逆の方法がいつでもどこでも誰に対しても正解ということではない。
願わくば、私の様な人間でも静かに本を選べる店が生き残りますことを。

リベラルは思想か旗印か



「リベラル」って言葉を属性と考えるか思想と考えるかで解釈は大きく変わる。

大体が、典型的な革新&右翼政党が自由民主党を名乗っている国なのだから、リベラルと言う言葉についても何をか言わんや。

同時に、「リベラル」という言葉を何の条件も無しに使うのもまた問題が多いのだろうと思う。

つまり、日本国においてリベラル=自由とは既存の枠組みからの開放をイメージさせることが多いが、既存の枠組みを含め求める通りに生きることを受け入れ、選べることこそが本来の意味でリベラルなので、「反自民」はすでにリベラルではない。

と、思う。

リベラルな思想がネットで弱いのは、リベラルを本当の意味で目指している政治組織がないのが一番大きいからだが、旗印としての「リベラル」はともかく、思想としてのリベラルは多様性や共存を求める。

そうなると、より自他共に誠実にリベラルであろうと考えるなら、様々な場面で決めつけは出来なくなる。多様性の否定につながるから。

そして決めつけが出来ない文章は、弱いのだ。

うだうだ話し合うことを求めるより、剣の一閃で勝負が着く場面は多い。そして、勝負が着くことを最善とするなら、話し合いは愚の骨頂なのだ。

でも、そうではない。面倒くさくても、話し合うべきなのだ…、と主張するのは、剣を持たないものだけだったりする。

 

とまれ。

 

多様性、自由、共存、尊重。

それらはとてもわかりにくいのだ。

それをわかりやすく説明できない方が悪いのは一部においては確かだが、汲み取る努力を放棄した人間に伝えることは容易ではない。

自由が必要ない人間にとっては自由は不自由なのだ。

 その人たち、つまり自由を求めてない人になにが伝えられるだろう。

だが、それでも右派言うのだ。叫ぶのだ。

それは負けるよ。

もっと、人間心理のレベルでリベラルを語れる政治家が現れたらなあ…と願わずにいられない。

自業自得

某アナウンサーの「暴飲暴食で果ての人工透析は自業自得」発言からの展開がなかなかに「自業自得」の典型パターンを踏んでいて非常に興味深い。

ところで「自業自得」ってなんだろう。

業とはその人が生まれ持ったもの、行いや思い、その結果などを総称したもので、自業自得とは、「己が持って生まれたもの、自分の行いや思い、その結果起きたこと、それらの影響は必ず自分が受け止めることになるよ」という、ごくごく当たり前の話を表す言葉だ。

だから、この意味合いにおいては「人工透析は自業自得」は間違いではない。

 

が、ここで気をつけなくてはならないのは、一般的に「自業自得」という言葉は「持って生まれたもの」と「その結果生じたもの」を抜かし、“「自分が行ったことや思ったこと」の結果だけを受け止めることになる”という意味で定着しているという点だ。

本来なら、親から地域から国から時代から受け継いだ業、他人の思った行った行為の影響としての業も考慮すべきなのに、これらの影響を想定してしまうと、話がとてもわかりづらくなるからなのだろうと思う。

例えば、人を人とも思わない経営者によるブラック企業が儲かるのだって自業自得だし、ナチス政権化のドイツで生まれたユダヤ人がそれゆえに収容所に入れられ虐殺されるのも自業自得だ…と、こういう文脈で使うと違和感を感じるくらい、「自業自得」は「自分が思い行った結果」くらいの意味で定着している。

 

もちろん、件のアナウンサーは本来の意味で自業自得という言葉を使ってはいない。だから、彼の用法は二重の意味で間違っている。

 

一つは、自業を「自分の思考や言説に限定するもの」と捉えて使うなら、自分の思考や言説の埒外のこと、生まれ持った業や他者の業の影響による業の部分の責任まで追わせるのは間違っていると言う点で。

もう一つは、本来の意味で言うなら、ありとあらゆることが自業自得であるので、自業自得を理由にある人は死ぬべきと言うのは、元々の自業を超える自得を求めてるという点で。

 

件のアナウンサーを巡るここのところの展開は、正に自分が行ったことと、それを元にした他人の業の影響によって引き起こされているわけで、たいへん興味深い。

結局、今回の事態を引き起こした大きな原因は「自分で行ったことがその人に返ってくる」と言う意味で「自業自得」を単純化して理解し、その浅い解釈で進めてしまった点に有る様に思う。

 

自業自得だからこそ、人は自業を見つめ自得を味わい学ぶ必要が有るのだ。学び考え行うことが必ずしも人を幸せにすることはない。

だからと言ってそれを止めるなら、当然その業も自得することになる。

結局のところ、善業とか悪業とかは狭い人間の了見無いでの話で、良かれ悪しかれ業は返ってくる。

そのことを意識しながら、それでもなお最善を尽くして生きるべきなんだと思うし、そうして受けた自業はきちんと自得すべきなんだろうと思う。

彼は自得できるのだろうか?