多様性や平和共存は清らかで美しい状態ではない

ホステルに宿泊した女子が散々な目にあったことを暴露したツイートが賛否両論 「この対応は酷い」「ホステルで女子一人宿泊は無謀」と様々な意見飛び交う - Togetterまとめ

ユースホステルを愛用してたものとしては切ない話。宿泊に対する意識や文化が明確に違う客と宿を(たぶん価格だけを軸に)マッチングさせてしまう仕組みの問題。

2017/05/31 09:07

ブコメしたのだけど補足。

宿泊の有り様という文化

宿泊行為にはそれぞれのジャンルごとの文化がある。
旅館には旅館の、ホテルにはホテルの、民宿には民宿の、ホステルにはホステルの、野宿には野宿の。
ホテルだって温泉ホテルとシティホテルとビジネスホテルではそれぞれ文化が違う。
それぞれのジャンルが、発祥した地域時代状況思想等に影響を受けながら発展してきた。

今でこそ、宿泊施設予約サイトで一括で並ぶ状況が当たり前になっているが、20年前にはそれぞれのジャンルごとで施設紹介本が別になったりしていて、明確な違いがあった。
そんな中では、ホテルに泊まる人はホテルに行くし、旅館を好む人は旅館に行った。
件の様なユースホステルに行く人は、ユースホステルの雰囲気や思想やシステムを愛している人が多く、値段だけでなく、選ぶ情報ソースや予約手段などからして、それぞれの文化を持つ宿泊施設&客の住み分けがはっきりしていた様に思う。(少なくとも今よりは)
だから今回の事象は、「そうと考えず異文化の地に踏み込んでしまった件の女性」と「異文化の人と考えず受け入れてしまった宿」との不幸な出逢いであると言うのが私の感想だ。
こうした不幸な出逢いは古今東西ざらにある。
(「あるから別に良いだろう」というわけではない)

仮に今回泊まった人間がユースホステルの仕組みや雰囲気を愛する人だったらこんな否定的な文言が並ぶことはなかったろう。
いや、件の女性を批判しようというのではない。
「泊まる人間が違えば同じ環境でも感じ方が違うのは当たり前」ということを言いたいのだ。

だいぶ前、乙武洋匡さんが通路に階段のあるバーで運んでもらえなかったことをツィートして話題になったが、これなども、足腰が自由な人間ならそういう話は出なかっただろうという点においては同じ様な不幸な出逢いの話に属すると思う。

異文化の不幸な出会いを防ぐ方法

ではこうした不幸な出逢いを防ぐためにはどうしたら良いのだろうか?

ありとあらゆる施設がありとあらゆる文化を持つ人の来訪に備え準備を行うべき?
いやそれは無理だろう。出来る施設はあるだろうがそんなのは世界に一握りだと思う。
もちろん、件の宿には抜かりがあったとは思うし、乙武さんの話題の店にもやりようはあっただろう。
だが「どんな状況でもお客様の要望に100%応える」なんてのは、それなりの見返りを求めることが出来る施設の力であり矜持であって、それをどんな施設でも実践すべきというのは、「どんな時でも親の言うことは100%言う通りにすべき。」という言説が間違っている程度に間違っている。

では、ありとあらゆる人が異文化と思われるものに接触することをやめるべき?
実は一番現時点で現実的な方法ではある。自分の見知った文化を知りそれを受け入れそれを普通と感じている人々・施設・地域・空間だけで過ごせば、異文化によって不快な思いをすることはない。それがかつて有り今なお偏在する「隔離」の根拠でもある。
隔離などというとあれだが、コンビニやレンタルビデオのアダルトコーナーだって隔離による産物だ。
異文化、その文化に馴染まない者は予めお断りすることが出来れば、不幸な出会いはだいぶ防げる。

しかし、この「異文化、その文化に馴染まない者は予めお断りする」ための既存のフィルターは欠陥品の場合が多い。その人の持つ文化は心のものなので概ね目に見えないからだ。
そのため、感覚器で感覚できる情報に依存することになる。
肌の色、目の色、髪の色や質、服装、髪型、持ってるアイテム、喋り方、立ち居振る舞い、臭い、それらが醸し出す雰囲気。
もちろん言うまでもなく、これらはその人が心の中で属している文化を100%代弁してはくれない。だが、周囲にその人の心がわからない以上、周囲はそれらの感覚できる情報に頼らざるをえない。
その結果、同じ文化にあるものまでも排除することになったり、結局違う文化を持つものがすり抜けるのを許してしまったりするので、実は根本解決にはならない。

多様性や平和共存は美しくない、でも

では、根本解決するためにはどうしたら良いのか?
結局のところ「異文化に出逢ってもそれを受け入れつつ、要望を伝えつつ、お互いが我慢できる範囲で共存できる世界を模索する。」ということしかないのだろうと思う。

では今回の場合は?
正直、件の女性はホステルを使うのは不快感ばかり増えるだろうから、今後はそれ以外のジャンルの宿泊施設を探すべきだと思う。「不快だと感じるので私は使わない」も立派な共存の在り方だと思う。(他人に強制するなら別)
一方のホステル側は、現状では棲み分けが機能していない以上こういうお客様が迷い込んでくる可能性は十分あるので、自分たちの宿の有り方を客観的な情報で出来るだけ事前に目につく形で発信していくべきだと思う。(言うは安くだけどね。異文化の人間への発信方法は異文化の人間でないとわからないものだから)。
そして双方、そのまま共存する状態。

「これは美しくない。なんだかもやもやする。間違いが何処かにあるような気がする。
自分の理想が100%正しいと主張できない状態は不愉快だ。」…と感じる人もいるかもしれない。
でも、多様性とか平和共存っていうのはそういうものなのだろうと思う。
ビオトープはただのこ汚い池にしか見えなかったりするが、綺麗な水の中に錦鯉しかいない状態の池よりも豊富で多様な生命を内包している。
もちろんすべての場所がビオトープになる必要はないしすべきとも思わない(それもまたスッキリした美しさを求める点で一緒だから)。
だけどせめて自分の心くらいは、自分の周りくらいは、多様性や平和共存を目指していきたいものだと思う。

税務署の基準は名誉?

ビールの定義拡大 「クラフトビール」開発を後押しへ | NHKニュース

えーと、これのどこが開発後押しなのかな。ようやく定着し始めたクラフトビール業界を税務署が刈り取る宣言であってむしろクラフトビール開発を後退させる施策だ。(小規模保護はワインの話。混ぜ方がひどい。)

2016/12/06 07:39


このブコメした後、他の人のブコメ観てて気がついた。

要するに「税務署にビールとして認められる」ことに価値を見出す人というのがある程度いて、たぶん政治の世界とか官僚の世界には結構いて、そういう人から見ると、「きちんとビールに認めてやるんだから光栄だろ?」って言うスタンスで、NHKはタイトルを付けたということなんだろうな。

 

発泡酒どころか第三のビールで十分な私には理解できないのも仕方ない。

うまけりゃ、安い方がいい。

その上、企業の負担が増えないなら益々良い。

そういう視点では、このタイトルは理解できないということなんだろうな。

 

既視感

トランプ大統領誕生に、全米で反トランプデモが起きてるらしいけど、つい最近もこういうの見たと思ったら、英国のEU離脱の時だった。

 

あの時も、エスタブリッシュメントは結局離脱はないと考えていたのが、蓋を開ければ離脱が多数ということで、こんな馬鹿な!みたいな話がでていた。

 

どちらも、既存の構造への不満が底流にドロドロ流れている。このままでは何も変わらない。

変わるなら、変えてくれるなら、誰でも良い。

 

様々に理論的に正しいことの言える人は多い。そうした訓練は、構造の上の人間ほど受けることが出来やすい。ここ数十年の歴史は、正しいとされる理念や理論によって彩られてきた。

自由平等博愛なんてのもそうで、でも、現実にそれらが弱い人々を救ってるかと言えば、救ってはいるがまだまだ足りない。

 

むしろ、自由の名の下、強者が弱者を弱者がより弱者を蹂躙することが許され、平等の名の下に、弱者への保護は切り捨てられ、博愛の名の下に、強者やその取り巻きへの援助は強化され…なんて言うことも起きている。

 

言葉は道具だ。

道具は使い方でその意味が変わる。

 

救ってくれないお題目なら、そんなの必要ない。たとえ地獄に落ちたとしても、今よりはマシだ。 

 

…と言うような思い。

 

私はそれでもお題目も大事だと考えてしまう口だけど、そうした底流の存在を受け入れると、色々腑に落ちて来る。

死んで花実が咲くものか

宇都宮の元自衛官自爆事件について書かれた

これこそがテロなんだと思った: 極東ブログ

この記事を読んで、ではなぜこの事件が「テロ」と呼ばれないのかを考えてみた。

この事件といわゆる一般的なテロとの共通する構造

テロとはそもそも何か?
分かってるようで実は明確でない。その定義は様々なようだ。

外務省のこのページを見ると、中段辺りでテロは以下の様に定義されている。

テロに国際法上の定義はありませんが、一般的には、「特定の主義主張に基づいて、国家などにその受け入れを強要したり、社会に恐怖を与える目的で殺傷・破壊行為(ハイジャック、誘拐、爆発物の設置など)を行ったりすること」を指します。言い換えれば、「テロ」とはとても広範囲で多岐にわたる行為を含むものであり、その形態には実にさまざまなものがあります。

妥当な説明だと思う。
これを定義として考えた場合、今回の事件の場合、犯人の主張は特定の主義主張に基づいているとは思えず、国家に対する具体的な事項の受け入れの強要もないように見える。
現場で見つかった遺書には「命をたって償います」とあった様だが、これは主義主張とは言えないだろう。

犯人のブログは怒りと不満とに満ちているが、ではと言って具体的にどういうことを周りにして欲しいのかという具体的な主張は、少なくとも私には汲み取れなかった。辛かったのは分かる。納得できないのも分かる。だが例えば、ブログの最後のエントリーのタイトルで並べた「内閣官房 内閣法制局 内閣府 宮内庁 国家公安委員会・警察庁 総務省 法務省 文部科学省 厚生労働省」などに対し、具体的にこういうことを受け入れろという言葉はない。

ブログの記事のほとんどには「宇都宮家庭裁判所が栃木県知事から任命された栃木県地方精神保健福祉審議会委員を5年間連続で欠席している」という一点だけを執拗に繰り返しているが、これは離婚裁判が自分の望む方向に進まないことに対する不満を社会正義的な話に転換して語ろうとしているだけの様に見える。

彼が妻に対するDVで訴えられ敗訴したこの裁判、もし仮に彼の望む通りに進んでいたらどうだっただろうか。
たぶん、彼は死ななかったのだろう。
だが裁判における妻側の主張なども見れば、彼の主張は無条件に受け入れることは難しいものであると感じる。

彼のブログの中で後半の方に「死んだら認めてやると裁判官に言われた」旨の記載がある。
記録も無いと書いているから彼の幻聴だった可能性は極めて高いが、強いてこのブログの中で、のちの自爆事件と絡めて彼が訴えたいことを抜き出すとしたらここの部分だろう。
この裁判官に言われたとされる言葉は、自分の価値観の表れなのだろうと思われる。「死ねば認めざるを得ない」と彼は考えていたから、死んででも自分の主張を認めさせたいと考えた。

そこまで考えれば、これは一般的な政治的テロと構造的には何ら変わりないと言うことがわかる。
そして逆に言えば、そこまで考えなければこれをテロと見ることが出来ないと言うことでもあるのだろう。

政治的努力の放棄=共感獲得への努力の放棄?

「政治的テロにおいて大事なのは犯行声明」とはよく言われる。
既存の政治システムを使い、そのシステムの中で合法的に自分たちの主張を認めさせ、その主張に応じた政治状況・政治体制を構築すること。本来取られるべきそうした手段ではなく恐怖と暴力で自分たちの主張を認めさせているだけ。
テロリストはテロ行為を既存の政治システムに対する代替行為と考えている。

だからそこには当然の様に主義主張に基づいた犯行声明が付いてくる場合がほとんどだ。
犯行声明が無ければ、彼らにとってすらテロがただの犯罪行為でしかなくなってしまうからだ。

私たちはそれに慣れている。政治的な主義主張の実現を目指すテロ行為の存在に慣れている。
だからテロと言ったら必ず主義主張に基づいた犯行声明がある、と思っている。

だがそれは、テロ集団といえど、たくさんの人々が関わって行く中で、彼らの思いを彼ら自身が皆で共有できる主義主張にまとめる過程を踏まえたからそういう主義主張が語れるし犯行声明も出せるのだ。

彼の場合はどうだろう。

彼のブログで語られる不満は絶望は、不満や絶望の表現としてはよくわかる。
だが、それを踏まえてこうあって欲しいという理想、あるいはその実現のためにこうして欲しいという手段については、あまりに朧気だ。

おそらく本人の資質もあったろうし統合失調症の疑いもありそうだから難しかったとは思うが、もし彼が己の不満・絶望を元に、どうあるべきか、そのために何をすべきかを明確にすることが出来たら、その主義主張を明示して今回の自爆事件を行っていたら、この事件は当初から自爆テロとして報道されていたかもしれない。

否、否。

それが出来ていたら、彼はたぶん別な手段を選んでいたのではないか。

もっと他の人が理解し共有・共感できる形で自分の思いを言葉にできたなら、彼はこんな形で主張を行う必要は無かったのではないか。
政治的テロリストが既存の政治システムを拒否してテロ行為に出るように、彼は「他の人との交流を通して世界を動かすこと」に絶望しそれを拒否して強制的に自分の思いを認めさせるために今回の自爆行為に出た。

「自分の思いや考えが他人に共感される」

自爆の前にその経験があったなら、否、それを感受する余裕があったなら、その経験を通しての彼自身の変化があったなら、彼は自爆する理由を失っていたのではないだろうか。
だが、彼はそれを得ることは無かった。だから彼は自爆したのだろう。

動いた先が見えない行為は動かしたことにならない

とは言え、だ、彼のブログを読んでそれに共感しろと言われても、少なくとも私には無理だ。
当事者だって(いや当事者だったら余計に)難しいのではないかとも思う。

妻が宗教にはまった、娘が統合失調症になった。
だからと言って、自分のDV行為などを理由に起こされた離婚裁判について、その判決を不服とするのはともかくだいぶねじれた方向で裁判所批判を始める人が身近にいて、その人を理解しなければその人が自殺するよと言われても、私はたぶん無視するだろう。
無理だ。私にそんな余裕はない。彼の身近に私がいても彼の自爆は止められなかっただろう。

どうしたら止められたのだろうか。
正直絶望的な話だ。
そして絶望的な状況では、人は自分の命の価値を高く見積もりがちだ。
絶望的だからこそ、0に極めて近い命の価値を0にしないために死ぬ。
自殺とは「自分の世界を終わらせる行為」だ。

だが、「世界を終わらせること」は「世界を動かすこと」のうちに入るのか否か?

希望があるなら人は死なない。死ねない。
希望を持てる人が一人でも多くなることが、こうした極私的テロを減らすための方法なんだろう。
希望とは畢竟「自分に世界を動かす力がある」という確信のことだ。

彼はその死によって、それに対する報道を起こさせ、それを見た人にブログ記事を書かせしめ、その記事を見た私にブログ記事を書かせしめている。これは彼の死が私を動かしたことになる。
だがもちろん、そんなことは彼にとってはたぶん全く価値のないことだ。

「彼に直接関わりないから」ということではない。
彼は死んでしまったからだ。

政治的テロの場合、自爆した人間は自分の死が残る人々の希望になると考える。
彼の死は彼の死でしかない。
彼がおそらく本当に得たかった人々の共感がこれによって発生したとしても、彼はもうそれを感受することができなくなった。
彼の行為によって動かした結果を感受できないなら、その変化は少なくとも彼にとっては無いのと一緒だ。
(これもまたテロと呼ばれない原因の一つなのだろう。主張の結果の受け手がいないという点で。)

だから「自分の世界を終わらせること」は「自分の世界を動かすこと」には入らない。

あの自爆が何千人何万人を殺すような結果につながっていたとしてもだ。
政治的テロがその主義主張に関わらずただの犯罪だ。同じく今回の事もまたその思いに関わらずただの犯罪だ。
世界を動かしたいなら、動かせると実感したかったのなら、彼は死ぬべきではなかった。

この世にあるありとあらゆるものは、その存在そのものによってそれと関わる全てのものに有形無形の影響を与え動かし続けているし、自らもまた動かされている。
それが自分にとって望ましいものでなかった時にそれを望ましい方に変えようと考えるのは業であり、自業・他業もまたさまざまに絡まって世界を複雑に動かしつづけている。

屁理屈で言えば、彼は生きているだけで世界をある方向に動かしていた。
その実感を感じることが出来ないだけ(また、自分の望む方向でなかっただけ)で。

彼は死ぬことで自分を絶望の淵に固定してしまった。
世界を願う方向に動かしたいなら死んではだめなのだ。

お祭りと馬鹿

 

この記事に対して書いたブコメに補足。

 

この記事に対して微妙な感じを受けたのは、「地方はどうでも良いのか」という点なんだが、それともう一つもやもやしてるのは「ハロウィンで騒ぐのは馬鹿なのか?」という点。

大前提としてお祭りで羽目を外して周りの迷惑省みず大騒ぎしている人々は、馬鹿か理知的かと言えば馬鹿だろうとは思う。

 

ただ、お祭りに際し馬鹿騒ぎせず理知的であることは理知的なのか?馬鹿騒ぎすることは馬鹿なのか?というと、微妙な話だと思うのだ。個人差が非常に大きい問題と言うか。

 

大体がお祭りと言う奴はなんで存在してるのかと言えば、そのお祭り毎に由来が色々あったりなかったりするが、一つ共通して言えるのは、それらは「日常の連続の中に有る非日常」である点じゃないかと思う。

もちろんその度合いもお祭り毎に個体差が有るのだが、明確な由来がなくてもお祭りは発生している(もちろん発生しないところも有るが)という点は興味深い。

たぶん、人にはお祭り…というか非日常の時間が必要なのだろう。なぜだろうか。

たぶん、非日常によって日常を相対化出来るからではないかと思うのだ。

 

お祭りの時だけ出て来る屋台や飾り、お祭りのためだけの踊りやお囃子、お祭りのためだけの人間関係、お祭りを実現するための準備は長いスパンではその共同体の日常であるが、人の通常の感覚では日常の中に入り込んだ異質な時間だ。

相対化は異質なものが存在して初めて可能になる。そして相対化は内部の絶対化を手助けする。

相対化されない状態の世界ではそこにいる個人の差が大きな意味を持つ。

「私と彼は違う」にどうしても目が行く。

だが、その共同体に異質な時間が来ると「いつもの私達と今の私達は違う」という点が浮かび上がる。

もちろんその意味の解釈は人それぞれなので、その効果も様々なのだが、不思議と共同体への帰属意識が醸成され、共同体への不満が軽減されることが多いように思う。

思うに「私と彼は違うがより大きな目で見れば私たちは共通の船に乗った存在なのだ」ということを体感させる効果が発揮されやすいということなのだと思う。

辺縁の人ほど中心の人より帰属意識が強いとはよく言われることだが、これは異質なものがすぐそこにあることによる相対化が置きやすいためと言える。

相対化がより強い絶対化を加速するというのは皮肉だが、グローバル化した世界で右傾化が各地で進んでいる現状は正にその反映かもしれない。

 

閑話休題

 

お祭りは日常を相対化するための時間である、ならば、非日常を楽しむことこそが本来的には正しい過ごし方と言えなくもないのではないだろうか。

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソンというあれだ。損か得かはともかく、日ごろ理知的な人間が阿呆になることにこそお祭りの価値がある様に思うのだ。

 

 

もちろん、日常的な視点で判断するなら馬鹿だろうし、そういうのが嫌いな人があっち行けと言いたくなる気持ちは正直わからないではない。

それはブコメでも書いたが差別意識の現れでもあるのだが、無意識の差別意識が表層に現れるのは正にそういう時で、その時こそ自分の差別意識を意識できるチャンスでもある。

そういう変革のチャンスともなり得るのだ。

これもまた、お祭りの相対化の効果の一つ…と言うのは言い過ぎか。

 

(革命や変事がお祭りをキッカケに起きるなんて話は歴史上に散見されるのも、相対化した結果絶対化する価値は無い!に大きく傾きやすい時間だからだったりするのでは。)

本屋の未来?

togetter.com

この記事に

ブコメしたけど補足。

昨今(と言っても話題になってからもう20年近く経っているけど)、体験マーケティングというのが販売の現場で羽振りを利かせていて、つまり「物を売るのではなく、“価値あるものを買う”という体験を売る。」みたいなやり方が効くと言われているので、件の記事の編集者はたぶんそういう視点から発言したのだろうなあと思う。
で、件の古本屋さんは「体験の仕方にも色々あるでしょ」という話をしているという事なのだと思う。

つまり、「独特な本の匂いに囲まれた静謐な空間でゆっくりじっくり自分の気に入った本を選ぶ内省的な時間」を意図的にお客様に用意するのもまた一つの体験マーケティングであり、あるいは「ファッショナブルな空間で店員さんと会話を楽しみながらファッションを選ぶように本を選ぶ時間」も同じく一つの体験であって、どちらも唯一の正解ではないが、それを前提にその場、扱うもの、その時期、そこに来るお客様のニーズに応じて、より最適な方法を採ることが、少なくともマーケティングの視点からは重要であるということだと思う。

個人的には「おすすめ」が嫌い

個人的には、服屋でも本屋でも家電屋でも、話しかけられるのは苦手。過剰な接客をされると逃げ出してしまいたくなる人間なので、Amazonのおすすめなんかも鬱陶しくて仕方がない。
内省するに、これって「俺の選択を邪魔するな。余計なこと言うな。」という業の深さが根本にあるのだけど、同時に「周りの雑音で簡単に影響されてしまう心の弱さ」の故でもあるのだろうと思う。
「おすすめ」を「命令」と感じてしまう弱さ。だから、話しかけられることを忌避してしまう。
コミュ障の直接の原因は本人自身の自我の弱さ(それは取りも直さず自己肯定感の低さ)にある。
弱い自我を守るために他者からの働きかけに過剰に反応してしまうのだが、それはとてもしんどいことなのでつい忌避する方向に行ってしまう…ということなのだと思う。

精神的にきちんとぶれない自分を持っている一般の人達には言葉は言葉でしかないのだろうけど、私には飛び交う一言一言がパンチの様に感じる時がある。どんなに優しい言葉でもそうだ。
どうやってダメージを避けられるか、どうやって相手にダメージを与えずに(あるいは的確なダメージを与えて)言葉を届けられるか。
おそらく第三者的に見て何気ない会話の風景に見えるその場面で、そんなことを必死に考えながら言葉のやり取りをしているのだ。
「何をそんなに守ろうとしているの。傷ついたっていいじゃない。」
と言われたことも過去に何度かある。
全くその通りで、傷ついたって良いと開き直って会話しようとしたこともあるが、結局ものすごい精神的ダメージを受けた上に相手に伝えたかったことは全く伝わらずむしろ誤解され、立ち直るのに何か月もかかった。
上記の言葉は、リングに上がったボクサーに「ガードなんかするな」と言ってるようなもんなんだけど、もちろん言葉がパンチに感じない人々からすればごくごく当然の言葉で、もうこれは仕方ないのだろうなと思う。
私はたぶん、死ぬまで言葉をパンチのように感じながら日々を過ごすだろうし、そういう人間にとっては声掛けされる接客は銃弾飛び交う戦場に飛び込むようなものだから、しないで済めばそれに越したことはない。
(だからと言って人と触れ合いたくないわけでもないのだ。ああ、我ながら面倒くさい。)
(そんな人間は、物自体で、あるいはPOPで、書かれた情報で、雰囲気で人を感じようとする。ああ面倒くさい。)

求めるものを与えることの多様化

閑話休題

「ねじまき鳥のクロニクル」だったと思うけど、主人公の叔父が実業家で、その成功した方法っていうのが、いいなと思う店舗物件のところで一日に3~4時間ずつ何日もそこに立って、その前を行きかう人の顔を余計なことは考えず無心に眺め、思いついたことをやる…というやり方だった。
これはまあファンタジーだから、これで上手く行く人がどれ位いるかはともかく、自分のやりたいことではなく経済効率でもなく、その場所、そこを通る人々を見てそのニーズを汲み取ることが大事という点はその通りだろうと思う。

結局のところ、会話を楽しむ人々、人と触れ合う経験を求めている人々をターゲットにするなら、そういう体験を軸にしたマーケティングは成功する。そういう人たちが集まりたい空間を用意し、そういう人たちが喜ぶ本をセレクト出来たら完璧だろう。
それはたぶん本屋さんの未来像の一つとして有りなのだろうと思う。今ほとんど無い=これからも無いというわけではない。
以前スゴ本(わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるとか)絡みのコンテンツをチェックしていた時期があって、オフ会の様子などああ、楽しそうだなあと思ったりもした。ああいう空間。
互いに良いと思う物をおすすめしあって、それを販売するようなショップっていうのはたぶんありなんだろうな。
(でもねたぶんそういう空間に私の居場所は無い。モランが灯りに引き寄せられている様なもんだと思うのだ。)

そういう店を求めている人もたぶんいるし、たぶん客を得れば売上も伸びるだろう。その結果、ゆっくり本を選べない、本を選ぼうとすると店員があれこれ話しかけてくるみたいな店が増えて行く可能性は無くはない。
そんな店ばかりになったら、私は「本屋に行く」という体験自体を諦めるだろうと思う。
「求めるものを与えること」が経済の根幹だと思う。で、「求めるもの」を画一的に捉えることで効率化を図り経済規模を大きくしていった果ての今の状況。大きくなり過ぎ画一化された「求めるものを与えること」をより細分化していくことこそが重要なのだと思う。

かつての様に画一的に、どこの本屋も「本屋では静かに」を当然としていた状態が唯一の正解ではないのだろうけど、だからと言って逆の方法がいつでもどこでも誰に対しても正解ということではない。
願わくば、私の様な人間でも静かに本を選べる店が生き残りますことを。

リベラルは思想か旗印か



「リベラル」って言葉を属性と考えるか思想と考えるかで解釈は大きく変わる。

大体が、典型的な革新&右翼政党が自由民主党を名乗っている国なのだから、リベラルと言う言葉についても何をか言わんや。

同時に、「リベラル」という言葉を何の条件も無しに使うのもまた問題が多いのだろうと思う。

つまり、日本国においてリベラル=自由とは既存の枠組みからの開放をイメージさせることが多いが、既存の枠組みを含め求める通りに生きることを受け入れ、選べることこそが本来の意味でリベラルなので、「反自民」はすでにリベラルではない。

と、思う。

リベラルな思想がネットで弱いのは、リベラルを本当の意味で目指している政治組織がないのが一番大きいからだが、旗印としての「リベラル」はともかく、思想としてのリベラルは多様性や共存を求める。

そうなると、より自他共に誠実にリベラルであろうと考えるなら、様々な場面で決めつけは出来なくなる。多様性の否定につながるから。

そして決めつけが出来ない文章は、弱いのだ。

うだうだ話し合うことを求めるより、剣の一閃で勝負が着く場面は多い。そして、勝負が着くことを最善とするなら、話し合いは愚の骨頂なのだ。

でも、そうではない。面倒くさくても、話し合うべきなのだ…、と主張するのは、剣を持たないものだけだったりする。

 

とまれ。

 

多様性、自由、共存、尊重。

それらはとてもわかりにくいのだ。

それをわかりやすく説明できない方が悪いのは一部においては確かだが、汲み取る努力を放棄した人間に伝えることは容易ではない。

自由が必要ない人間にとっては自由は不自由なのだ。

 その人たち、つまり自由を求めてない人になにが伝えられるだろう。

だが、それでも右派言うのだ。叫ぶのだ。

それは負けるよ。

もっと、人間心理のレベルでリベラルを語れる政治家が現れたらなあ…と願わずにいられない。