自分の中の相手像と現実の相手とのズレ

togetter.com

この記事に対し、

【暴走する老人の愛と性欲】職場の高齢男性にガチ恋されてしまった体験談がなかなかにキツかった - Togetter

この「お互いの相手像・相手への思惑がズレている」にも関わらず「一方の行為だけが許容・擁護されている」と言う構造は割りと属人的で、この男性はたぶんこれまでにも同じ構造の問題を起こしてると思う。(妄想)

2018/10/21 11:24

ブコメしたのだけど追記。

私は、件の漫画で描かれてるお姉さんと男性の件に関しては、少なくも漫画を読む限り、相手の意思を考えず自分の思うような関係性に持ち込もうとした点に於いて、男性側が悪いと思うし、既存の男性のイメージに引きずられ今回の件を女性側の責任とした言動をしていた点に於いて、周囲の同僚達も悪いと思う。

もちろん、この漫画は女性側の視点のみを取り上げているわけで、実際どうであったかを客観的に調べなければ真実は見えないという批判はあり得る。
でもそこに踏み込み、客観的に両方の情報を集めて真実を見出すことは私の手に余る。
そこのところは申し訳ないが、ご本人たちにお任せしたい。

自分の中の相手像と現実の相手のズレ

私が、今回の件で不謹慎ながら興味深いと感じたのは「相手像のズレ」という点だ。

人は、他の人を認識する際、相手が実際感じたり考えたりしていることを直接感覚することは(たぶんほとんどの人は)できない。
そこで、自分の感覚器を通して感じ取ることが出来る、相手の見た目、雰囲気、言動、仕草、匂い、実績、評判、その他その人に関するあらゆる情報、さらに相手を構成する様々な要素(件の男性なら「老人」「男性」「同僚」「年上」などなど)に対するイメージを元に、自分の中に「相手像」を構築し、それを通して相手を認識し、相手像の言動として相手の言動を見聞きし、判断する。

言ってみれば、レイヤーのデザインを相手に任せたVtuber同士みたいな状態だ。

この相手像も構成要素となる様々なイメージも、自分の脳内で作られた概念であって相手そのものではない。
だから当然のように、脳内のそれらの像やイメージと現実の相手との間にはズレが発生する。
もし仮に相手が「自分の本心」と称するものを出してきたとしても、それが相手の本心だと信ずる根拠はどこにあるか?
あるとすれば自分の中の相手像だ。相手像とその「本心」とがかけ離れたものでなければそれは信ずるに値する。と、考えざるを得ない。ならば、相手の真の姿を追い求めることにどれだけの意味があるだろうか?

そうして私達は、本当の本人自身を認識することを諦め、自分の中の相手像によって相手を知った気になり、その人に対する判断・対応をルーチン化する。相手の言動が自分の中の相手像から大きく離れないのなら、それ以上深く考えないでその自分の頭の中の相手像を鵜呑みにして生活をする。
それ自体は悪いことではない。ズレが不可避である以上、それをある程度受け流さなければ緊張状態がずっと続くことになり、精神が参ってしまう。

件の漫画に於いて、男性が「女性と性的なお付き合いができる相手と勘違いしていたこと」と、女性が「男性を無害なお友達と勘違いしていたこと」に関しては、仕方がないのではないかと考えている。
それぞれの立場に共感する立場の人にしてみたら、相手の感じ方は明らかに勘違いであり、生理的に納得行かない許せないものに感じられるかもしれない。でも、その人の頭の中の相手像がそうならその人にとっての相手はそういう存在なのだ。脳内の相手像を通さず、相手そのものを直接認識出来ない以上、どのようなズレも起こりうる。
それを責めても意味がない。自分も相手も周囲のみんなも、完全な正解を知ることは永久に出来ないのだ。

ズレの修正とズレをなかったコトにすること

だから、問題なのはそのズレが判明した後だ。
相手の中の自分像と、自分の中の相手像のズレが判明すると、それぞれの中の相手像は揺らぎ危機的状況に陥る。
これを根本的に解決するには、自分の中の相手像を修正する必要がある。そうした方が理にかなってるし、相手に対して誠実だと言える。
だがそれは相手に関する全ての情報の再検証が必要となるため、精神的な負担を伴う。

そこで、それが嫌な人はそのズレを無かったことにしようとする。
自分の中の相手像を不動のものとして、そのズレを認識するきっかけとなった事象を、それが起こり得る他の要素のせいにしてしまうのだ。

今回の場合、男性は、女性に対し「自分とあなたは性的なお付き合いができる関係性である」ことを認めさせようと様々な言動を行い、最後には無理矢理既成事実を作ってしまうことで、自分の中の相手像を守ろうとした。
周囲の人たちも、女性の主張により危機に瀕した自分の頭にある件の男性の相手像を守るため、女性の側に問題があったからそうなったと考え女性を責めた。
どちらも自分の中の相手像(男性の中の作者のお姉さん像&周囲の人の中の男性像)を守ろうとして、作者のお姉さんにそのズレのつけを払わせようとした。

これは極めて不誠実だし、不条理だ。
「相手像と現実とのズレ」が不可避であったとしても、否、不可避だからこそ、自分の中の相手像を以て現実を変えようとする態度は傲慢だしするべきではないと私は思う。

(もちろん、自分の中の相手像を相手に伝えることは許されるべきだ。
今回の場合、男性側が、女性側を性的対象と考えている旨をアピールすることは、例えそれが女性側の持つ相手像を壊すものであっても、認められるべきだし、女性側が、男性側を性的要素の無い友人としてしか考えてないことをアピールすることも当然認められるべきだ。
そうでなければ、相手像を修正するきっかけを得ることが出来なくなってしまう。)

ズレを無かったことにしようとする人を表現すること

ところで、以上は倫理的な視点からの考察なのだが、表現論的な視点から考えるとちょっとそこまで言い切れなくなる。

この「相手像と現実とのズレ」は極めて人間の特徴的な要素であり、神話を初め古今東西様々な物語において組み込まれている。
倫理的には「相手像と現実がズレているなら相手像を修正すべき」と考えるが、こと物語においてはそうとも言い切れない。修正したくても出来ない弱さもまた人間存在の有り様の一つだからだ。
そして世の中にはたくさんの「相手像と現実がズレた時に現実を変えようとする人々」が描かれる。中には好意的に、あるいはポジティブに描かれる場合もある。
「倫理的に批判されるべきことを行う人々が表現の中には多く存在すること」は、批判されるべきだろうか?

私はそれは許容されるべきだと思っている。
表現は「自分の中の相手像を相手に伝える行為」に当たると思うからだ。
例えば件の漫画では正に「相手像と現実がズレた時に現実を変えようとする人々」が表現されているが、それによってそうした人々の存在を知らなかった人々の中にある相手像が揺らぎ、危機に瀕する。修正の必要が出てくる。
そこで的確に修正を行えれば、そこで表現された様な状況を体験しなくても、相手像はより現実に近いものになっていく、はずだ。
少なくとも、全く無批判に自分の中の相手像を盲信するよりはマシだと思う。

情報の自由と不自由

news.yahoo.co.jp

この記事に

「本が読者に届かない」Amazon商法に公取委が突入で炙り出される出版業界の予後不良(山本一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

良記事。/近世の本屋は店頭販売もあるがお得意さんを回って販売するのも多く、お得意さんの嗜好に合わせた本を持っていくし、それが本作りの現場にフィードバックされたりもしたらしいが、先祖返りというべきか。

2018/09/20 08:32

ブコメしたのだが、その後に思った散漫な色々を追記。

インターネットの黎明期、そこを情報の自由が許された楽園の様に語る人々がいた。
私もその内の一人で、リアルの世界では情報はお金とコミュニケーション能力のある人の所にしか来ないけど、インターネット上なら好奇心さえあればリアルで届かない情報にも届くと漠然と思い、ワクワクしていたのだ。(一方そこにリアルで充実してるような企業やユーザーが参入してくることを快く思ってなかった)
私自身はといえば継続的かつ発展的な好奇心を維持できない散漫な人間なのでその恩恵はあまり被らなかった気がするけど、それでも、例えば当時、発展してつつあるとはいえ極めてまだマイナーだったデスクトップ利用のLinuxの設定関係に関しての情報などは、比較的最新の比較的細かい情報を得ることが出来たりしていたので、一概に恩恵を被ってないとは言えない。
当時、電子書籍はまだ遠い夢に感じたし、今のような書店の末路は「若者の本離れ」の文脈でしか語られてなかった様に思う。

もし、当時の時点で現状を想定し、例えば業界共用の電子書籍ビューワーの開発や電子書籍販売システムの構築を進める人がいたら(いたのかもしれないが)どうだったろうか。

でも、どうもあまりいい想像がわかない。
たぶん、なんのかんの理由をつけてそれを使おうとしない企業・消費者が多かったんじゃないだろうか。ほとんどの人は無関心で、関心がある人の中でも声の大きい人は生まれたばかりのそのシステムの欠点をあげつらって、あげく「このシステムが発展することによって書籍文化は破壊される!!」みたいな話をして叩いて、一方でその後AmazonKindleみたいなものが始まるとそっちに飛びついて「日本製にこだわるのはガラパゴス思考だ」とかいう人が出て、
で、世界線は同じところに集約されると。
まあ、基本的に悲観的な私の妄想に過ぎないが。

Amazon商法は、現状の情報環境の中で情報流通で利益を得ようとする企業の努力によって編み出されたものであり、それ自体は純粋に利益追求システムであるから、文化の発展や業界の発展は埒外なのは至極当然。
Amazon商法によって消費者に本が届かなくなった部分がある一方でAmazonによって今まで届かなかったところに本が届くようになった部分もある。
郷里の田舎では、まともに生きてる本屋は1町に1件あるかないかだ。主要国道などのロードサイドの大型店はまああるけど、そこから脇道にそれた町にはもはや書店そのものが無いエリアだって多い。

そういうところでも、インターネット回線がありと宅配圏内であればAmazonやその他ネット通販なら本が買える。電子書籍なら言わずもがな。Amazon商法による弊害とAmazonによるメリットの比較で言ったら、正直メリットの方が多いのではないだろうか。
じゃあ今の状態がベストなのかと聞かれたら、ベストではないと思う。


インターネットに「情報の自由」を感じた時代、それでも当時様々な情報が電子化されつつあったが、基本的に文化は物や人を媒介にする必要があった。
物や人が少ない地域、来にくい地域では文化そのものが発展しにくく、だが一方で中途半端な情報流通は、その地域でほそぼそ伝承されて来た文化をやんわり破壊して行き、文化の空白地域が生まれてきつつある時代だった様に思う。
インターネットや電子化は、そんな地域に住む人間にとって物や人を介さないでも文化に触れる(実際はPCや携帯に触れなければアクセスできないわけだが)事ができる状況を与えてくれた。だからこの自由は「物や人からの自由」だったのだろう。
(まあ、この自由は例えば「著作物の内容を勝手にネットにアップする」とかによって成立していた部分もあるわけで、社会正義的にはどうなのという話ではある。)

その後の情報化の進展によって色々な場面で「物や人からの自由」は推し進められたけれど、それは同時に「ネットワークやシステムによる束縛」のスタートにもなった。

あるシステムの便利さを知った人は、容易に他のシステムに移らない。
システム側も、それが利益につながるなら、そのシステムを使う人間を離さないために何が出来るか、どんなメリットを生み出すかを考え、改善していく。
あるシステムに束縛される不自由さと引き換えに与えられるシステムを使うメリット。それが個人的に見合うなら、そこに他人が口を挟む余地はない。
大体Amazon商法が良くないと言って、じゃあ従来の書籍流通は良かったのかといえばそんなことは無かった。ただ王様が切り替わっただけで、支配されている状況は変わらない。この状況で自由を求めようとするなら自らの願う形でメディアや流通システムを作るしかないが、そこまでする気力も技術もアイディアも無いなら、諦めて受け入れるしか無い。

いずれ、Amazonに変わるシステムが登場するだろうし、もしかしたらAmazonが瓦解する日が来るかもしれないが、その日は別に消費者が流通から本当の自由を得る日ではない。
というかここでいう「自由」はイコール「便利」でも「快適」でも「幸福」でもない。
「便利」や「快適」や「幸福」を手に入れるなら「若干の不自由を受け入れる方が早い場合が多い。そのシステムが自分の自由とバッティングしない限りそれで問題ない。
逆にバッティングする時は、そのシステムの利用が「便利」で「快適」で「幸福」であればある程、自由を得ることは極めて難しくなる。

願わくば、必要な時が来たら、「便利」や「快適」や「幸福」を捨ててでも「自由」を選べる強さを、それが無理なら「自由」を諦められる弱さを。

…とは別な軸

togetter.com

この記事に

昔々、私はリベラルだった。 - Togetter

自分が愛するあり方を他人に強要することはなにを自称しようとパターナリズムだし、他人のあり方が嫌悪すべきものであっても尊重するならリベラル。勝ちたい人はパターナリズムにならざるを得ない。

2018/09/13 18:26

ブコメしたけど一言補足。

いわゆる「リベラルを名乗る人」と本当にリベラル的であろうとする人は別物。

リベラルという言葉には色々なイメージがこびりついているけど、辞書で見るなら「自由」とか「寛容」とかが出てくる。
自由や寛容さを良しとすることがリベラルの本来の意味であるとするなら、その人がリベラルであるかどうかは、結果的にその人がどうあるかによって評価されるべきことだ。
リベラルを訴えることではなく、「リベラルであること、あろうとすること」こそが重要なのだと思う。

件の人は、リベラルを自称しその実リベラルであろうとしない人々に愛想をつかし、リベラルを自称する人々から離れると主張しているわけで、それは気持ち的によくわかる。

ただ、だからと言って逆側に行くのならリベラルを自称するパターナリストと一緒だとも思う。この人が本当に求めている道は、左とか右とか革新と保守とかの2次元の軸じゃなくて、3次元に走る軸なのだと思うのだ。

この人だけでなくリベラルであろうとするためには、世界の現実を構成する様々な軸「とは別な軸」に常に改めて気づき続けることが必要なんだと思う。

「働かざる者食うべからず」を守るため

昭和時代にサラリーマンやりたかった

昭和の時代の未来予想図にはロボットや機械がめんどくさい仕事を引き受けてくれて日々遊んで暮らせる世界が有った。なにが間違ってたかって、技術が進んでも「働かざるもな食うべからず」が残ったことだ。

2018/06/26 22:59

「そこそこ簡単で、それなりの給与と地位が約束される仕事」が消えた世の中では、見えにくい「弱者」が増えている。 | Books&Apps

機械化やAIの進歩仕事を失わない優秀な人たち(嫌味)って、優秀じゃない人たちの仕事が無くなったら「働かざるもの食うべからざる」自体崩壊するのがわからない程度の優秀さなのが人類の限界。

2018/06/26 22:54

立て続けに「働かざる者食うべからず」をテーマにブコメをしたので補足。

「働かざる者食うべからず」という言葉の出処を調べたことはないけど相当古い言葉だと思う。
Wikipediaによると新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節には「働きたくない者は食べてはならない」という一節があるらしい。
一方、技術の進化により様々な単純作業や力作業の労働は機械が担う事が多く、人間が駆り出されるのは機械の管理や、機械を使うと採算が取れないような場合だけになってきているし、またAIの進化によって知的労働の分野においてもたくさんの仕事が人々から奪われ始めているらしい。
特に、AIの進化を語る記事では「あなたの仕事もこのままだと失われますよ」と不安を煽るような記事が結構多い。「だから、AIができないような専門性を身に着けましょう」と続く記事も多い。

なんで不安になるかと言えば、「働かざるもの食うべからず」なので、働けなくなったら食うことができない=死ぬしかないからだ。

なら、この状況がもっともっと進めば、「機械が出来ない高度な仕事ができる人」はたぶん比率的にそんなに増えないから、結局働けない人がどんどん増える。
「働かざる者食うべからず」が真理で有り続けるなら、働けない人は食うことが出来ない。
機械化やAI化が進んで生産物がどんどん積み上がっても、それを消費する事ができるのは、「機械に出来ない高度な仕事ができる人」だけになるから、物が余りまくって、一方に飢餓が蔓延するようなことになる。
もちろん、社会保障の枠があれば、「機械に出来ない高度な仕事ができる人」の成果を分配することによって一部の働かざる者が食わせてもらえる状況は出てくるだろうけど、あくまでそれは例外であり「機械に出来ない高度な仕事ができる人」のお情けだから、彼らが不快に感じればそれは容赦なく削減される。
削減されても文句は言えない。だって「働かざる者食うべからず」が真理だから。

さらに機械やAIの進化が進めば「機械に出来ない高度な仕事」も減っていく、「機械に出来ない高度な仕事ができる人」も減っていく。
社会保障が維持されるなら一人あたりの「機械に出来ない高度な仕事ができる人」にのしかかる「働かざる者」の人数は増えていく。不快に思う「機会にできる高度な仕事ができる人」が社会保障の枠を狭めれば「働かざる者」は死んでいく。

これはもちろん妄想だ。世の中はこんなに単純には動かない。
でも、こういう方向性の萌芽は色んな所で感じる。


生産力が小さい時代には、「働かざる者食うべからず」の言葉の価値は大きかったと思う。
でも、生産力が高まり、多くの労働が消滅し、あるいは機械やAIに取って代わられていく時代においてはどうだろう。
生産力の向上が価値があるのは、生産されたものを消費する人々がいるからだ。生産されてただ飾られているだけのものに利用価値はあまり無い。
それでも「働く者」で十分に消費しきれる内はいいだろうけど、消費しきれないむしろ生産するほど無駄になるなら、より機械化やAI化を進め「働く者」を減らして効率を上げなければ…でもそれって水槽の中のタコが餌がないからと自分の足を食べ始めるようなものだ。

「働かざる者食うべからず」を維持するためには、生産物が十分に消費(=食う)される必要がある。生産効率が上がっていくなら、それに合わせて消費効率も上がっていかなければ、自分食いが始まる。
では消費効率を上げるにはどうしたら良いのか?
結局「働かざる者食うべからず」を部分否定するしか無いんだと思う。
例えば「働かざる者」の判断基準を下げるというのはあるだろう。
ベーシックインカムとか社会保障の拡大とか最低賃金の向上なんかはそういった取り組みと言えるだろう。これまで「働く者」扱いされなかった、あるいは低く見られていたものに、より大きな「食う」権利を与えれば、部分的にではあるけれど「働かざる者食うべからず」を維持することはできる。

まあ、維持する必要はないと言われればそれまでなんだが。
消費者になる可能性のある人間を切り捨て、それによって利益を搾りだすようなビジネスって結局焼き畑農業と一緒のように思う。

(生産効率が高まった世界における仕事のあり方の一つの理想は、星新一の「コーポレーションランド」みたいなあり方じゃなかろうか。)

多様性の意義とその確保に必要なもの

yuhka-uno.hatenablog.com

この記事に対し

『LGBTが気持ち悪い人』の感覚―「理解」と「罪」の認識のズレ - 宇野ゆうかの備忘録

良記事。「適度に放って置く」ことが出来ないということは「自分に同化しろ」の裏返し。/(ただ、そういう主人公が頑ななキャラの心を開くみたいなストーリーは持て囃される世の中であり、なんともモヤモヤする。)

2018/04/10 09:01

ブコメしたのだが書き切れなかったので追記。
件の記事を読んでいてなるほどと思ったのはここの部分。

差別感情が強い人の『理解』のポイントがズレてるのは、自分と他人の区別がつかない人の感覚と、とてもよく似ていると思う。相手に、自分と同じ感覚を持つことを要求されていると勘違いするのは、つまり、自分が、自分と同じ感覚を持っていない相手を受け入れられないことの裏返しなのだ。

たぶん、件のBさんやインタビュアーにこのことを伝えても理解されることは無いだろうと思う。でなければ、差別意識を無邪気に正当化出来ないだろうと思う。
で感じたのはブコメしたようなこと。

おせっかいな主人公

アニメや漫画や小説には「苦しんでいる人のことが放って置けないお人好しが、その人の苦しみに踏み込んで解決しようと頑張り、ついには苦しみの中で頑なになっていた人の心を開く。」みたいな展開の作品ってのは実に多い。
そして、私はそうした展開、割と嫌いじゃないのだが、一方でいつもなんとなくもやもやしたものを感じてもいた。

物語の場合、その苦しみは割とわかりやすい形で表現され、また、主人公の力によってある程度解決が可能なもの、あるいは少なくとも主人公の力の振るえる場面を交えて描かれる。
苦しんでいる人が居て、苦しんでいる原因や解決法が割とはっきりしていて、それを解決する力などがあるのなら、その解決に手を貸すことは悪いことではない、とは思う。

でも、現実の社会において、そんな風に正解がはっきりしている問題なんてのはほとんどない。
ある人から見て上記のような状態に見えても、当人や関係者から見たら全く別な状態にあったなんてことはよくあることだ。

そうした時、自分から見た状況を絶対とし自分が考えた解決法を正解と思える人は、当事者たちの感覚や考えを全く無視して、自分が正しいと感じるものを押し通そうとする。そしてそれが否定された場合、それは自分たちへ、というより“正義”への全面攻撃であると捉え徹底的に戦おうをする。
「お前の思い込みをふっとばしてやるよ!」的な展開。
物語では、それでいいだろう。
でも本当にそれはふっとばして良いものなのか?

多様性の確保は混沌への入り口

現実の世界ではふっとばすべき「敵」や「悪」はわかりにくい。
というか絶対的な「敵」や「悪」は存在しない。あるのは「ある人の世界観」の中での「敵」であり「悪」だけだ。だからふっとばせない、ふっとばすべきではない場合がほとんどだ。大変気持ち悪い。もやもやする。でもそれこそが「多様性が確保された状態」なのだと思う。

多様性の確保とは、「“多様性を確保していこう。みんなの考え方を理解し認め受け入れていこう。”という価値観に同化することを求める」ことではなく、「“多様性なんかいらない。私は私が正しいと思う価値観に従って生きる。”という個々が共存すること」だ。
もやもや前提、気持ち悪い前提、息苦しさ前提なのだ。
マジョリティにとって清くも正しくも美しくもないその世界。でもそういう世界でなければ息もできない人がいる(私含む)。
だから多様性の確保が必要なのだ。けしてマジョリティの正義のためではない。

多様性とは混沌性でもある。割り切れないものを割り切れないもののまま。
だが、それだと利害がバッティングする場合がある。その場合どうするのか?片方を正しいとしてもう一方を無くすなら、それは多様性を失わせる。多様性を確保した上で共存するためにはどうしたらいいのか?
多様性の確保に必要なのは「優しさ」とか「清らかさ」とか「正しさ」とかではなく、異質な存在と共存するための「知恵」や「技術」や「仕組み」であり、「適度な鈍感さ」や「冷静さ」なのだと思う。

排除としてのゾーニングと共存のためのゾーニング

最近もやもやしているテーマ。

表現の自由に対する公的な規制強化は論外として、

ある表現物によって傷つく人がいた場合、その表現物が誰もの目につく所に掲示するのは傷つく人に対する加害行為だと言える。
と言ってその表現物を誰も見れないようにしたり、破壊してしまうことを要求することは、その表現物を作った人に対する加害行為となる。
この場合の合理的な落とし所は、その表現物を見たいと思う人間だけがアクセスできるようにすることだろうと思う。いわゆるゾーニングだ。

だがゾーニングすることはそのゾーニングされたものを排除することではないか?
多様性を持ちつつ共存できる社会を良しとする場合、それは正しいのか?

共存のためのゾーニング

理想を言えば「誰もが他人の有り様を受け入れつつ、自分も有るべき姿で有ることが平和に出来ている状態」だろうと思う。が、それはたぶん無理だ。

多様性を確保するということは「自分の有り様を否定する人間の存在を受け入れる」ということだ。
それを自分の理念として掲げるのは良い。また相手に語りそれを求めていくのも有りだと思うが、強要するのは間違っている。
強要をありとするなら「○○は△△に奉仕すべきだ」と考える△△がそれを○○に強要することと一緒だ。それは間違っていると思う。だから強要するのはたぶん間違いだ。
だがそうなれば、関係性は一方通行になる。

片方は受け入れ片方は排除する。それは結果的に排除そのものを許容することになる。
マハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」はそれに対する解の一つなのだろうと思う。
暴力による排除はしないがその支配に服従もしない。
これは反抗するための方法だが、同時に共存するための方法でも有る。そして共存する方法ではあるが、融合する方法ではない。

融合、つまり均質に溶け合うのではなく、個々を保ったままでしかし共存するということ。
均質に溶け合うということは自分が無くなるということで、そんな状態で共存できてもそれは多様性の否定に他ならない。
多様性を確保するためには個々であることが前提になる。だが存在そのものが他の存在への加害となるなら直接触れることは平和を乱すことになる。
なら、直接接触しなければ良い。
…と、そんなことを考えていくと、ゾーニングは平和共存のための方法として必要なものなんだと思えてくる。
排除のためのゾーニングではなく共存のためのゾーニングだ。

理想のないゾーニングは排除にしかならない

ただねえ、人は自分の目の前にある、直接触れられるものを全てと思いがちになるもので、ゾーニングによって直接触れることがなくなったものは、この世には存在しないモノとおもってしまう可能性がある。SNSなんかではよくある光景。それは共存といえるのだろうか?とも思ってしまう。

ところで、曹洞宗の言葉に「只管打坐」という言葉がある。
「悟りを得ようとして座禅するのではなく何も求めずただ座る」ことで曹洞宗の根本と言ってもいい考え方の一つ。
この考え方はつまり「煩悩を捨て悟りを求めることもまた煩悩なので、煩悩を祓わず悟りを求めずただ座ることが悟りを得た仏の在り方なので、仏になるのではなく仏であることを体験せよ」ということだと思う。

自由・共存・多様性を求める心は、前世紀に比べたらよほど強くなり広まり当たり前になっているのではないかと思う。
一方で、世界がどんどん窮屈になってきているようにも思う。
実はこれ相反する話ではなく、自由・共存・多様性を求める、当たり前とする心が強くなったからこそ、束縛・分裂・排除・均質性がより強く感じられるようになってきているということではないだろうか。いじめの問題が話題になるといじめの報告件数が増えるみたいな話。
光が有るから影が生まれる。
求めるから遠のく=距離を意識してしまう。
それを無理やり近づけようとするあるいは遠ざけようとすることは問題を悪化させることにつながるような気もする。

もちろん、ハラスメントによって傷つけられる者がそれを当たり前として受け入れるのが当然な状態が良いとは思わない。けど、ゾーニングによって自分の周りに自分が不快に思うものが見当たらない状態になることが最終的な目的としたら、それは「排除のためのゾーニング」でしかない。

山奥の煩悩の種が少ない清らかな状況で平穏を手に入れても、刑務所の規則正しい生活で自分が真っ当な人間になれたと感じていても、それを汚穢物欲溢れる巷で貫けるかどうかはまた別な話。
上で理想として書いた「誰もが他人の有り様を受け入れつつ、自分も有るべき姿で有ることが平和に出来ている状態」というのは、いわば「汚穢物欲溢れる巷でもなお仏としてある」ようなことなんだろうと思う。
それはすばらしいことだが、ほとんど不可能に近いと思う。

でもそれを理想として掲げた上で初めて「共存のためのゾーニング」は正当性を持ちうるのだと思う。

金持ちにだって貧乏が性に合う人が多分いる

orangestar.hatenadiary.jp

この記事に

10億あっても幸せになれない - orangestarの雑記

だからこそ多様性の確保が重要なんだろうな。みんなが「やりがいより効率」と考えるなら、やりがい搾取が成立しなくなる代わり効率改善効果が発揮される余地も無くなる。

2017/09/07 10:41

ブコメしたのだけど補足。

言わずもがなのことで無粋極まるが、「10億の金に利子がつく」のは「10億の金を預かってそれを元手に金を貸し利子を取ってその利益を得たり、外貨や株や先物を売り買いしてその利ざやを稼いだりする人」が稼いでくれるからである。
さらに言えば、金貸しの先には金を借りて何かをやって利子を付けて金を返す人がいるし、外貨や株や先物の先には、そこでやり取りされる金や会社や物を通して利益を得ようとする人がいるから、金を預かった人は利子を得られる。
これらの人達が「10億の元手で何もしないで利子だけで遊んで暮らす」ことを選ばないから(選べないから)「10億の元手で何もしないで利子だけで遊んで暮らす」人が存在し得る。

実際、利子だけで暮らす生活を提示されたら私はそれを選ぶだろうか。選ぶ。選ばせて下さい。
でもその上で、なんか余計なこと始めそうな気もする。
利子だけで遊んで暮らせる生活は、たぶんそれが出来る人間を選ぶと思う。

貴族でも公家でも武士でも良い、かつて上流階級と呼ばれた人々の中に、精神的に患ったり奇矯な行動を取る人が多かったのは、そうした生活に耐えられない人達がいたと言うことではないか?
あるいはその階級ならではの複雑な礼儀作法やら常識やらが積み上がっていたのも、あるいはいわゆる「ノブリス・オブリージュ」なども、そういう物事を生み出しそれをこなすことを目的化しなければ生きていくことすらできなかった人達が多くいたということなのではないだろうか。
金持ちの中にも、上流階級に生きる人達の中にも、貧乏生活のほうが生き生きと幸せに暮らせる人はいると思うのだ。(本人や周りはけしてそうは認めないだろうけど。)

貧困の中に喘いで、そこで生きることが耐えられなくて死ぬ人もいれば、そこでの生活を受け入れられる人もいるのも同じことなのではないか。
中流ゆえの「どちらにも属さない」苦しみを感じる人と感じない人がいるのも同じ。

もちろん、経済的な余裕の差はその人の生存確率に大きく影響を与えるから、貧困層の困窮による死亡の方が数は圧倒的に多くなるから、貧乏であることが、貧富の差が激しいことが、多くの人々の不幸に繋がっていることは確かだけれど、結局それぞれの状況において、その状況に向いている向いていないがあって、それぞれの性向とそれぞれの状況とをうまく噛み合わせようと必死に努力している結果が、今の世の中であり、その中には今いる状況ではない別な状況のほうが幸せになれる人が多く含まれているのだろうと思う。

いわゆる自己責任論的世界は、ただ世界の一部の人の幸せしか見ていないことがわかる。
「貧困者を経済的に支える」「金持ちに経済的な負担を与える」こともまた、それぞれの性向の存在を受け入れた上で、それぞれの状況において、それぞれが少しでも幸せに生きていけるような方法を模索することの一つであり、それらが一つでも増えることが、総じては社会全体の安定につながるのではないだろうか?

ベーシックインカムが全ての人を幸せにすることは無いだろう。
でも、それによって幸せになる人は多分いる。
同時にそれによって不幸になる人も多分いる。
そしてこれはどんな施策に関してもいえることだ。
だから、「それは正しいか正しくないか」という問いかけは限定的にしか意味はない。

社会保障が社会を安定させるのは、社会保障が必要なギャップが存在するからだが、ギャップが完全に無くなれば、当然それを不満に感じる人々が増える。周りとギャップがなければ生きていけない人もいるのだ。そういう人達の不満が社会を不安定にする。

結局のところ「社会の安定」とは「比較的幸せな人が多い」状況で発生している状態であり、「社会の安定の維持」は「それぞれの状況と性向に応じた幸せを獲得できる人を増やす」ことによってしかなし得ないということだ。

だから、多様性の確保が重要なのだ。
それは「AはBでなければならない」「AはBであるべきだ」を少しずつ解体しては再構築していくということを通して得られる成果なんだろうと思う。
もちろん「多様性は絶対確保されなければならない!」もまた解体再構築されるべきものだろう。単一の価値観に包まれた状態にこそ安定と幸せを見つける人はいるのだから。
でも、もちろんそうした人だけが生き残れる状態もまた間違っている。

ああ面倒くさい。
つくづく「いい加減」ということの難しさを感じる。